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風に吹かれて旅するブログ

日々のニュースや出来事・暦・記念日・季節祭事・時事・情報・雑感等を風に吹かれながらまったりとお知らせしています。

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ウィットにとんだ万葉人のココロ 「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ」 

今朝庭に出てみると雪が積もっていました。

「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」程度です。

積もった雪を見ると必ず思い出される和歌があります。

 

天皇、藤原夫人(ぶにん)に賜ふ御歌一首

●我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後 (万葉集巻第二103)
筆者訳「私の里に大雪が降ったぞルンルンそなたの住む古びた田舎に降るのは少し後のことだろうな」
天皇の独白(少しからかってツッコミを入れてやったがどんな返事をよこすか楽しみだワイ)

藤原夫人の和(こたえ)へ奉(まつ)る歌一首

●我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ (万葉集巻第二104)
「あらまあ、良かったですわね。でもそれは私が退屈紛れに雪の神に頼んで降らせた雪のかけらがそちらに散ったのでしょうよ」
藤原夫人の独白(まあいい歌だけど、雪が降ったぐらいでルンルン気分になるなんて子供じみてるわ。男ってかわいいものね)

以上の相聞歌を現代風に解釈してみました。
仲睦まじい夫婦がスマートフォンやメールで会話を楽しんでいるようです。
二人が住んだ里はスープの冷めない距離にあったようですがそこが返って面白いところです。

天皇、藤原夫人(ぶにん)に賜ふ御歌一首」のなかで「大雪」降れり「大原」と「古り」にし里に 「降ら」まくはと韻を踏んでいてリズミカルな感じが出ています。このリズミカルな部分を管理人は「ルンルン」という言葉を補って訳してみました。


和歌というのは文字だけではなく声に出してみるとさらに味わい深いものになるものです。
和歌の作者も「わかってくれるかな?」とそこを期待しています。
【「和歌」と「わか」ってくれるかな?とオヤジギャグ&韻を踏んでいるのです。】
万葉人の間では常識だったことでしょう。
天皇、藤原夫人(ぶにん)に賜ふ御歌一首」のウキウキ、ルンルン気分を表現したリズム感と「藤原夫人の和(こたえ)へ奉(まつ)る歌一首」のウィットにとんだ返歌が素晴らしいですね。
きっと天皇も満足したことでしょう。

 

★田 捨女または、田 ステ女(でん すてじょ/すてめ)

田 捨女または、田 ステ女(でん すてじょ/すてめ、1634年(寛永11年) – 1698年9月13日(元禄11年8月10日))は、江戸時代の女流歌人俳人。貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人。

氏名は田ステで、「女」は名の一部ではなく女流歌人の名に添える接尾辞である。法名は貞閑で、貞閑尼とも呼ぶ。

経歴

田捨女は1634年、丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県丹波市柏原地域、当時の藩主は織田信勝)に、柏原藩の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生した。

6歳のとき

「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」

 

「初雪や 二の字二の字の 下駄の跡」という方もいますが

「雪の朝二の字二の字の 下駄の跡」という句が正しいようです。

という俳句を詠み、周囲にその才を認められる。後に北村季吟に師事。1674年(延宝2年)夫が死去したため髪を下ろし妙融と号した。この頃にはすでに貞門女流六歌仙の1人として著名であった。

その後子供らの独立を見届けた後、京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後、1688年(元禄元年)播磨国の天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」という庵を構え、貞閑と改名。その地で後進の指導に当たった。

1698年に死去し龍門寺に葬られた。龍門寺には現在も捨女の墓がある。

死後

捨女の生誕地である柏原町丹波市立崇広小学校には捨女を顕彰する記念の石像が、また資料館として柏原町歴史民俗資料館がある。

また捨女の名を冠した俳句のイベントが定期的に開催されるなど、地元での認知度は高い。

子孫に財界人田艇吉、枢密院顧問官や閣僚を歴任した男爵田健治郎、参議院議員田英夫らがいる。