■4月5日はヘアカットの日、横町の日、デビューの日、小笠原返還記念日
毎月5日はノー・レジ袋の日などがあります。
○ヘアカットの日
1872(明治5)年4月5日のこの日、東京府が女子の断髪禁止令を出した。
前年に散髪、脱刀が許可されたが、これを受けて断髪をする女性が続出したため、「男性に限って許可した断髪を女性が真似てはならない」とする禁止令を発布した。
○横町の日
四(よ)五(こ)で「よこちょう」の語呂合せ。
○デビューの日
1958年のこの日、読売巨人軍の長嶋茂雄が開幕戦に先発出場し、公式戦デビューした。
○小笠原返還記念日
1968年のこの日、第二次大戦後アメリカの施政下に置かれていた小笠原諸島を日本に返還する協定が締結された。
同年6月26日に協定が発効し、日本に返還された。
○毎月5日はノー・レジ袋の日
4月5日の「ヘアカットの日」について
■散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい、明治4年8月9日太政官第399)は、明治4年8月9日(1871年9月23日)に太政官によって出された法令。一般には、断髪令(だんぱつれい)という名称で呼ばれる。「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」。
概要
幕末に洋式軍制の導入が始まって以後、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつあったが、この日「散髪脱刀勝手たるべし」として髪型については勝手にし、華族・士族が刀を差さなくても構わないとした(なお、平民の帯刀については前年12月27日(1871年2月16日)に改めて禁止令が出されている)。
なお、例外規定として「官吏等礼服の時は帯刀すべし」とされている。これを受けて明治6年(1873年)3月には明治天皇も散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が増えていった。
断髪令という名称が有名であるが、散髪脱刀令は髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではない。
島津久光・忠義親子や榊原鍵吉のように、布告以降も髷をしていた者もいたが、特に罰せられてはいない。
島津忠義は髷を結った姿で大日本帝国憲法発布式典に出席している。また、政府の重鎮であった岩倉具視は、明治4年(1871年)11月に岩倉使節団を率いた際にも、横浜を発った時は髷を結ったままだった。その後、シカゴで散髪をしている。
この法令の目的の1つに、廃藩置県を受けて、旧武士に対する特権廃止の一環として帯刀の禁止が検討されたものの、刀を直ちに取り上げることは士族反乱につながる可能性があるために様子見の一環として出されたとされている。
関連する出来事
翌明治5年4月5日(1872年5月11日)に東京府が「女子断髪禁止令」を出している。これは散髪脱刀令の趣旨を「女子も散髪すべきである」と誤解した女性が男性同様の短髪にすることがあったためである。
明治6年3月敦賀県(現在の福井県嶺南)で、断髪令に反対する3万人が散髪・洋装の撤廃を要求した一揆が発生し、6人が騒乱罪で死刑となっている。
韓国においても1895年12月30日に同様の「断髪令」が出されたことがありました。
●韓国・朝鮮の断髪令(だんぱつれい、단발령、タンバリョン)は、1895年12月30日(旧暦11月15日)に朝鮮で出された、男性のまげを切らせる詔勅である。金弘集らが進めていた近代化政策である甲午改革、乙未改革の一環として行われたが、「身体、髪の毛、肌は父母から譲り受けたもので、傷つけないのが孝の始まりだ」という儒教の考えから反発が広まり、また断髪令は日本の真似だとして反日感情にも結びつき、乙未義兵が発生する原因にもなった。露館播遷後に、人心を収拾するため、断髪令は撤回された。
さて平成の御世、日本の総理大臣が美容室でヘアーカットをしたとして
昭和22年制定の理容師・美容師法での規制で問題なっている。
パーマネントウエーブの一環でのヘアーカットは許されているが、それを
しないでのカット行為は違反であるということで厚生労働省から異議が
出ているとか。たいした事件にはなりませんでした。
【オマケのニュース】
最近¥1,000カットのヘアーサロンが出現しています。
カットのみで所要時間はおよそ10~15分です(男女とも)。
髭剃り、洗髪はなし。
ところが先日、老婦人(50代~60代)がモード雑誌を持参で店員さんにあれこれ注文をしていました。
ゲェ~。そういうのあり?~。
(1,000円カットは短くするだけなのではないの)
店員さんは一応話は聞いていたようですが、どんなヘアースタイルになったか結果までは確かめませんでした。パリモードなのでしょうか?
★追記
ある女性に聞いたところ至極当たり前のことだということでした。
女性というものはいくつになっても髪が気に入らないと憂鬱になるらしい。
値段の問題ではないといわれました。なんとなく納得。