風に吹かれて旅するブログ

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4月16日はチャップリンデー 【街の灯】 「You?」(あなたでしたの?) 映画史上最も感動的な鳥肌もののラストシーン

4月16日はフォースクエアの記念日、チャップリンデー、女子マラソンの日等の記念日です。

○foursquareの日

アメリカ発祥の位置ゲー(携帯電話の位置登録情報を利用したゲーム)であるfoursquare(フォースクエア)の記念日。

16が4の2乗(four square)であることから。
関連サイト •foursquare https://ja.foursquare.com

○チャップリンデー

1889年のこの日、20世紀最大の映画作家・喜劇俳優のチャールズ・チャップリンがイギリスで生まれた。

口ひげ、だぶだぶのズボン、どた靴、ステッキ、山高帽という独特のスタイルで社会を風刺し、世界的な人気者になった。『モダン・タイムス』『ライムライト』等多数の作品を作った。

○ボーイズビーアンビシャスデー

1877年のこの日、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の基礎を築いた教頭・クラーク博士が、「Boys,be ambitious.(少年よ、大志を抱け)」という有名な言葉を残して北海道を去った。

○女子マラソンの日

1978年のこの日、東京・多摩湖畔で日本初の女子フルマラソンの大会「第1回女子タートルマラソン全国大会」が開かれた。参加者は49人だった。

 

★チャップリンデーについて

 

チャップリンの映画の中では「街の灯」が一番好きです。

 

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ある浮浪者が盲目の花売り娘の目を治すためにあれこれ奮闘する物語で、ユーモアとペーソスが織り交ぜられたコメディ・ヒューマンドラマです。

■ラストの場面「花屋の前にて」
花屋を立ち去ろうとする浮浪者チャーリーに花屋の娘「ヴァージニア・チェリル」はチャーリーに一輪のバラと小銭を恵んでやろうとします。

 店から出る少女、思わず逃げようとするチャーリー。

呼び止める少女、嬉しそうにチャーリーが近づいて、ニコッ。

 

 左手で花を受け取ります。今度はお金を渡そうとする少女。
と、少女の手が、チャーリーの手に触れたその瞬間、彼女は忘れられないあのぬくもりを思い出します。

見詰め合う二人。少女はチャーリーの身体をさわり

 

「You?」(あなたでしたの?) 【鳥肌が立つようなラストシーンです】

 「You can see now?」(見えるようになったの?)

 「Yes, I can see now」(ええ、見えますとも)

 思わずチャーリーの手を強く握り、引き寄せる少女。

 少女を見つめ、チャーリーはかつての優しい微笑みを浮べるのでした。

                                                THE END!

映画史上最も感動的なラストシーンですし、ヴァージニア・チェリル(Virginia Cherrill, 1908年4月12日 - 1996年11月14日)も実に美しい女優さんでした。

無償の愛を笑いと涙で描き、ココロ暖まる癒しの名作。

人の心というのは何も語らずとも通じ合うものなのですね。


★チャールズ・スペンサー・"チャーリー"・チャップリン(Charles Spencer "Charlie" Chaplin、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。左利き。


本名
チャールズ・スペンサー・チャップリン
Charles Spencer Chaplin

 

生年月日 1889年4月16日

没年月日 1977年12月25日(満88歳没)

出生地 イギリス ロンドン

死没地 スイス コルズィエ=スュール=ヴェヴェイ

民族イギリス人

職業
映画俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家、作曲家、マイム

ジャンル 映画

活動期間 1895年 - 1976年

配偶者
ミルドレッド・ハリス(1918年 - 1920年)
リタ・グレイ(1924年 - 1928年)
ポーレット・ゴダード(事実婚)(1936年 - 1942年)
ウーナ・オニール(1943年 - 1977年)

主な作品

『キッド』
 『黄金狂時代』
 『街の灯』
 『モダン・タイムス』
 『独裁者』
 『ライムライト』


受賞

アカデミー賞

特別名誉賞
1929年『サーカス』
1972年
作曲賞
1972年『ライムライト』
 

セザール賞

オマージュ
1977年、1987年

その他の賞

NY批評家協会賞
1940年 男優賞(『独裁者』)
ヴェネツィア国際映画祭
1972年 栄誉賞
 
■作風
初期はショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道なドタバタが主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的にはアナーキーでドライな作風が多い(女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである)。

しかし、1917年の『勇敢』・『移民』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自のヒューマニズムとなり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。

1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀をユーモアのなかに描き、『偽牧師(1923)』では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『サニーサイド(1919)』では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『キッド(1921)』ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視のコメディリリーフを試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。

さらにリアリズムに徹した意欲作『巴里の女性(1923)』。アラスカ・クロンダイクの金鉱発掘者たちのドラマ『黄金狂時代(1925)』。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『サーカス(1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。

また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『失恋(1915)』で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出されたと言われる。

以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風も大きく変わってゆく。

街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『街の灯(1931)』。
大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『モダン・タイムス(1936)』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『独裁者(1940)』。

 

“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『殺人狂時代(1947)』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起を賭ける『ライムライト(1952)』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『ニューヨークの王様(1957)』など。

 

フランスの映画監督ジャン・ルノワールは「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」と言っている。

専属のキャメラマンに、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたりローランド・H・トザロー(英語版)が務めた。


 『チャップリンの移民』(1917年)より。ヒロイン役のエドナ・パーヴァイアンスとは30本以上の作品で共演した。エドナ最後のチャップリン映画は『巴里の女性』である。

出演者には同じ俳優を起用することが多く、ヒロイン役にはエドナ・パーヴァイアンスが1915年から1923年までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としてはジョージア・ヘイル(『黄金狂時代』)、ヴァージニア・チェリル(『街の灯』)、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』『独裁者』)、クレア・ブルーム(『ライムライト』)などが挙げられる。

助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあったヘンリー・バーグマン(全20本に出演)をはじめ、アルバート・オースチン、アラン・ガルシア、エリック・キャンベル、ジョン・ランド、レオ・ホワイトなどが常連出演した。またマック・スウェイン、フィリス・アレン、チェスター・コンクリン、ハンク・マンといったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。

ペーソス
チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た食肉処理場から逃げ出した羊の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。

そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、やがて羊がつかまえられたとき、「あの羊殺されるよ・・・」と泣きながら母のもとに走って行った。喜劇と悲劇が紙一重になっているチャップリンの作風の原点となっている。(『自伝』より)


“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物には、幼少に見たルンペンたち、ミュージック・ホール時代のスターたち、草創期の映画スターたち(特にマックス・ランデー)など多くのモデルがいる。

チャップリンの母ハンナは、通りをゆく人々をパントマイムで表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。

映画の中で笑いの起爆剤となるドタ靴について、淀川長治は著書や講演の際に「雪の中、母親の靴を履かされた思い出」などを語っている。

チャップリンの幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。

 

反ナチズム
チャップリンは、ドイツのナチス党の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いたアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に発表した『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判している。

ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。ファシズム色を濃くし、ユダヤ人への弾圧強化、オーストリアやチェコスロバキアを併合していった上に第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「共産主義の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。

しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していたF・D・ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。


なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない。

チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にするギャグを使っている(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)。また、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」と語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になったのかもしれない。

完璧主義者
監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、1918年からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら劇伴を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。

 

特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回ものNGを出した(チャップリンが主演のヴァージニア・チェリルを根本的に好かなかったという理由がある)。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さでスタントなしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。

 

また、自身唯一のシリアスメロドラマ『巴里の女性(1923)』においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『伯爵夫人(1967)』同様監督にのみ徹し主演はしていないが、後者はソフィア・ローレン、マーロン・ブランドという二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。

一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかったソフィスティケートされた演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくのお蔵入りとなる。この「幻の名作」が再び世に出たのは1976年、彼の死の前年のことであった。


■チャップリンと日本の繋がり

1932年(昭和7年)5月14日にチャップリン初来日。東京駅には推定4万人の群衆が押し寄せた。当時の新聞記事は「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えた。

翌日には首相官邸で歓迎会に出席する予定であったが、ただならぬ五・一五事件に遭遇して、多大な衝撃を受けた。歌舞伎座や明治座で念願だった伝統芸能を鑑賞。初代中村吉右衛門や六代目尾上菊五郎、二代目市川左團次の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の曾我廼家五郎とは、互いに富士山を色紙に描いて交換しあう。 記者会見で「各国の文化水準は監獄を見れば解る」との持論から、小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察。

「恐らく設備、明るさの点からいって世界一」と絶賛した。帝国ホテルに定宿し、和牛ステーキをえらく気に入った。また箱根の富士屋ホテル、横浜のホテルニューグランドに逗留。日本橋の「花長」では海老の天ぷらを36尾も平らげ、その後の来日でも好んでエビ天を食べたことから、「天ぷら男」のあだ名がついた。

さらに「花長」で修行した調理師が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの時だった。なお、花長での記録は現在も破られていないという。

5月19日に五・一五事件で殺害された犬養首相の葬儀が総理官邸の大ホールでとり行われた。その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せた。この事に驚く参列者も多かった。

その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時読売新聞文芸部長を務め、後に小説家に転身した小野金次郎で、小野金次郎がチャップリンから戴いたサイン入りポートレートが孫である俳優の小野武彦が自身の自宅に保存していることを明かしている。

1936年(昭和11年)3月に再来日。ユナイト映画の大阪支社に勤務していた淀川長治が、神戸港に停泊するクーリッジ号で、45分の単独インタビューに成功。同年5月には、当時の愛人ポーレット・ゴダードとの新婚旅行を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上でジャン・コクトーと合流する。

京都に足を運び、最高級の老舗旅館「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣で絹のガウンを購入した。銀ブラ、浅草、相撲見物と愉しみ、足早に離日。チャップリンは船のタラップを駆け上り、やおら振り向くと、帽子をつぶして、セントヘレナ島へ流されるナポレオンのポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。

戦後は1961年(昭和36年)7月にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケルを連れて4度目の来日。通訳を務めたのは山口淑子。渋谷の東横ホールで、五代目中村富十郎の『義経千本桜』を鑑賞。

日光東照宮では靴下に草履ばきで、指が入らず突っ掛けて、お参り。藁ぶき屋根の農家や、風情ある銭湯を見つけるとふらり立ち寄り、お茶をご馳走になったり、脱衣場に居合わせた人々にビールやアイスクリームを振る舞ったという。高度成長期で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。

日本映画は黒澤明の『羅生門』しか見ていなかったが、「非常に高い水準の作品」と褒め称えている。

1970年(昭和45年)の大阪万博の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。1972年(昭和47年)のリバイバル上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。

3度目の来日で岐阜を訪れ、鵜飼を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。

その後、4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、すっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。なお、現在岐阜市内での鵜飼のポスターには、チャップリンと鵜が共にいるデザインのものが用いられている。下呂温泉の白鷺橋には記念のブロンズ像が2001年に設置された。

晩年マスコミから遠ざかり、スイスに隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得たタレントに萩本欽一、ヴァイオリニストの前橋汀子がいる。

 

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