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淡路島で銅鐸7点砂の中から発見 「女性にとって最良の夫は考古学者」国宝級名言?

淡路島で銅鐸7点 集めた砂の中から発見

 
兵庫県の淡路島にある石材メーカーの工場の砂の中から、弥生時代の祭りに使われたとされる「銅鐸(どうたく)」が7点見つかりました。弥生時代前期の最古の種類とみられるものや音を鳴らす部品を伴うものなども含まれ、兵庫県教育委員会は「極めて珍しい発見だ」としています。

 

兵庫県教育委員会などによりますと、銅鐸が見つかったのは南あわじ市の石材メーカーの工場にある資材置き場です。


先月8日、社員が市内各地から集めた砂の中に銅鐸のようなものがあることに気付き、地元の教育委員会が調べたところ、今月初めまでに高さ30センチ前後の銅鐸が合わせて7点、見つかりました。


弥生時代に作られた銅鐸は農耕などの際の祭りに使われたとされ、全国でこれまで530点余りが見つかっていますが、1か所でまとまって見つかった数としては、島根県の「加茂岩倉遺跡」などに次いで4番目に多いということです。


見つかった銅鐸のうち1点は、紀元前3世紀から2世紀の弥生時代前期に作られた「菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)」という最古の種類とみられ、全国でも11例しか出土していないということです。


また、3組は銅鐸の中に一回り小さい銅鐸を収めた「入れ子」という状態で見つかったほか、内部が確認できた3点からは音を鳴らすための青銅製の「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品が残されていたということです。


県教育委員会は「極めて珍しい発見だ」としています。
また、最初に発見した石材メーカーの西田達さんは「まさか砂の中からこれほど貴重なものが見つかるとは夢にも思っていませんでした。大変驚きましたが、うれしいです」と話していました。
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「何十年に一度の発見」

銅鐸は、弥生時代に作られた釣り鐘のような形をした道具です。農耕などの際の祭りに使われたとされています。


弥生時代前期に銅鐸が作られるようになったころは小型で、ベルのように音を鳴らすため「舌」と呼ばれる棒状の部品が内部に残されたものも見つかっています。しかし、時代が進むにつれて次第に大型化し、「舌」を伴わなくなります。


音を鳴らすよりも祭りの道具としての装飾性が強くなり、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変化していったとされています。
今回見つかった7点はいずれも小型で、「舌」の部分があることや文様などから、極めて初期のものとみられています。


長年、銅鐸を研究している奈良文化財研究所埋蔵文化財センターの難波洋三センター長は「これだけの数がまとまって出土するのは何十年に一度と言っていいほどの発見だ。銅鐸を鳴らす『舌』を伴って多数出土するのも珍しい。『入れ子』の状態で見つかったことなどから意図的に埋められた可能性があり、当時の祭りの姿を知るうえで非常に興味深い資料だ」と指摘しています。


また、淡路島でまとまって見つかったことについては「瀬戸内海の東に位置する淡路島は、弥生時代、大陸のものが九州を経由して今の近畿地方に伝わる際の重要な交通路だったことがうかがえる。弥生人が交易の拠点として重要視し、一定の有力な勢力が展開していた可能性がある」と話しています。


そのうえで「銅鐸の成分や、各地で見つかった銅鐸に同じ鋳型でできたものがないかを調べれば生産や流通の実態にも迫れるのではないか」と話しています。


元の場所の特定目指す

この銅鐸はどこから運ばれてきたのでしょうか。兵庫県教育委員会は、同じ南あわじ市の松帆地区ではないかとしています。


松帆地区は淡路島南部の瀬戸内海を臨む平野部にあり、美しい松並木が続く国の名勝「慶野松原」とその周辺に当たります。


この地区では、これまでも弥生時代の青銅器が集中的に出土し、2か所から合わせて9点の銅鐸が出土したり、出土したという記録が残されたりしているほか、さらに別の場所では銅剣が14本出土しています。
兵庫県教育委員会などは銅鐸があった元の場所の特定などを目指し、引き続き調査することにしています。

 

■砂山から銅鐸7個発見…国宝級?

  弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸どうたく7個が、兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかり、県教委と市教委が19日、発表した。

 

 海岸近くの松帆まつほ地区から採取された砂の山から見つかり、「松帆銅鐸」と名付けられた。出土数では、最多の島根県雲南市・加茂岩倉遺跡(39個)などに次ぐ4番目となり、一度に大量に埋められた最古のケースとなる。専門家は「初期の銅鐸祭祀さいしの解明につながる国宝級の資料」と評価している。

 

 銅鐸は、高さ22~32センチ、底幅13~19センチで、絵画が描かれていない古い時期のもの。うち1個は、上部の半円形の「鈕ちゅう」と呼ばれる部分の断面がひし形をした「菱環鈕りょうかんちゅう式」で、全国でほかに11例しか確認されていない最古段階のものだ。また、3個には銅鐸を鳴らすため内部につるす青銅製の棒「舌ぜつ」(長さ8~13センチ)が付いていた。一度に見つかった舌の数としては最多。舌が付いたまま大量埋納された例はなく、銅鐸を大量に埋める祭祀の最初の形態だった可能性がある。

 

※オマケの付録

 国宝級のユーモア・名言

 

●ミステリーの女王アガサ・クリスティが語った言葉

「女性にとって最良の夫は考古学者に決まっています。妻が年を取るほど夫が興味を持ってくれるでしょうから」。

まさに国宝級のユーモア・名言です。

★アガサ・クリスティ
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie, DBE、旧姓: ミラー (Miller)、1890年9月15日 - 1976年1月12日)は、イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説は世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名の小説が6作品ある。


アガサ・クリスティ Agatha Christie
 

ペンネーム
メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott、別名義)

誕生
アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラー (Agatha Mary Clarissa Miller)
1890年9月15日
イギリスの旗 イギリス デヴォン州トーキー

死没
1976年1月12日(満85歳没)
 イギリス オックスフォードシャー州
ウォリングフォード

職業推理作家

国籍イギリス

ジャンル推理小説

代表作
『アクロイド殺し』
 『オリエント急行の殺人』
 『そして誰もいなくなった』

処女作
『スタイルズ荘の怪事件』

配偶者
アーチボルド・クリスティ(1914年 - 1928年)
マックス・マローワン(1930年 - 1976年)
 
生涯
生い立ち

1890年、フレデリック・アルヴァ・ミラーとクララ・ベーマーの次女としてイギリス南西部のデヴォンシャー州に生まれる。

三人兄弟の末っ子で、10歳近く年の離れた姉と兄がいた。しかし年頃の姉マーガレットは寄宿学校におり、長兄モンタントはパブリックスクールを退校して軍に入隊していたために幼少期を共にする機会が少なく、専ら両親や使用人たちと過ごした。

父フレデリックはアメリカ人の事業家だが商才に乏しく、祖父の残した遺産を投資家に預けて、自身は働かずに暮らしていた。母クララは父の従妹で、少々変わった価値観を持つ「変わり者」として知られていた。母の特異な性格はアガサや家族の運命に少なからぬ影響を与えたが、フレデリックは奔放な妻を生涯愛し続け、アガサも母を尊敬し続けた。

少女時代のアガサは兄や姉のように正規の学校で学ぶことを禁じられ、母親によって直接教育を受けた。母クララの教育に対する不思議な信念は大きな影響を幼いアガサに与えた。例えばクララは「7歳になるまでは字が書けない方が良い」となぜか信じており、アガサに字を教えなかった。

実際アガサは一般の子供より識字が遅く、父がこっそり手紙を書く手伝いをさせるまで満足に文字を書けなかった。変則的な教育は字を覚えた後も独特の癖をアガサに残してしまい、現存している子供時代の手紙はスペルミスが非常に多い。

同年代の子供がパブリックスクールで教育を受ける間、アガサは学校に入ることを許されなかった。同年代の友人のいないアガサは使用人やメイドと遊んだり、家の庭園で空想上の友人との一人遊びをして過ごし、内気な少女に育っていった。

一方で父の書斎で様々な書籍を読みふけって過ごし、様々な事象に対する幅広い知識を得て教養深さを養うことが出来た。また事情から一家が短期間フランスに移住した時、礼儀作法を教える私学校に入って演劇や音楽を学んだ。結局、母は最後まで正規の教育を学ぶことは許さなかったが、アガサ自身は自らが受けた教育について誇りを持っていたという。

小説家
父の破産と病死、自身の結婚と離婚など様々な出来事を乗り越えながらもアガサは小説家として活動していった。『スタイルズ荘の怪事件』で推理作家としてデビューした。1920年のデビューから85歳で亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義の小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を執筆。ほとんどが生前に発表されている。中でも『アクロイド殺し』(1926年)、『オリエント急行の殺人』(1934年)、『ABC殺人事件』(1936年)、『そして誰もいなくなった』(1939年)等は世紀をまたいで版を重ねている。推理の謎解きをするエルキュール・ポアロ、ミス・マープル、トミーとタペンスといった名探偵の産みの親でもある。

アガサ・クリスティの推理小説は旅から生まれた。とりわけ離婚後のオリエント急行でのイスタンブールやバグダードへの一人旅は彼女に大きな影響を与えたといわれている。彼女の推理小説の魅力は、殺人のトリックの奇抜さとともに、旅から得た様々な知識が背景描写に使われていることである。オリエント急行でのイスタンブール行きは、38歳の離婚後、友人の家に招待されたときに聞いた話がきっかけとなった。1928年10月のことである。

初期の作品は『ビッグ4』や『秘密機関』など国際情勢をテーマにした作品があったりドイツや日本が関係するなど国際情勢に関する話が多い。冷戦時代はソ連のスパイも話題に上っている。

知日家という話はないが多くの長編小説でわずかに日本について触れられている。ストーリーにはほとんど関係のない物ばかりだが「着物」(『オリエント急行の殺人』)や「力士」(『ゴルフ場殺人事件』)などの単語がたびたび登場する。また、『アクロイド殺し』では「麻雀」が登場する。英文学において麻雀が登場したのはこの頃からである

そのファンからなるアガサ・クリスティ協会によると、彼女の作品は英語圏を越えて全世界で10億部以上出版されている。聖書とシェイクスピアの次によく読まれているという説もあり、ユネスコの文化統計年鑑(1993年)では「最高頻度で翻訳された著者」のトップに位置している。ギネスブックは「史上最高のベストセラー作家」に認定している。日本でも早くから紹介され、早川書房はクリスティー文庫としてほぼ全ての作品を翻訳している。

彼女が作品を発表した20世紀初めは保守的な風潮が世間に残っており、トリックに対するフェア・アンフェア論争が起こったり、犯人の正体がモラルの面から批判の的になるなど是非が論じられていた。同時にラジオや映画といったメディアが発達していたことで作品が広く知られることにもつながった。性格は人見知りの傾向を持ち、失踪事件(1926年)でマスコミの餌食とされたこともあり、意識的に表舞台と離れるようになったが、これが神秘的なミステリの女王伝説につながっていった面がある。第一次世界大戦中は薬剤師の助手として奉仕活動に従事していた。

略歴
1890年9月15日 イギリスの保養地デヴォンシャーのトーキーにて、フレデリック・アルヴァ・ミラーと妻クララの次女、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとして生まれる。正規の学校教育は受けず母親から教育を受ける。
1901年 父が死去。この頃から詩や短編小説を投稿し始める。ちなみに、詩や小説を書くことになった理由は、インフルエンザにかかり、読む本がなかったからだという。
1909年 自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。
1914年 アーチボルド・クリスティ大尉と結婚。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。
1919年 娘ロザリンドが誕生。
1920年 数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版、ミステリ作家としてデビューする。
1926年 『アクロイド殺し』を発表。大胆なトリックと意外な真犯人をめぐって、フェアかアンフェアかの大論争がミステリファンの間で起き、一躍有名に。また、母が死去する。この年アガサは謎の失踪事件を起こす。
1928年 アーチボルドと離婚。アーチボルドは愛人と再婚。
1930年 中東に旅行した折に、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)と出会い、9月11日再婚する。

 この結婚について「クリスティはなぜ彼と結婚したかと問われて『だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから』と答えた」という逸話がある。一説によると誰かが流した心ないジョークで、クリスティは作者を殺してやるといきまいていたとも言われるが(早川ミステリの解説より)、孫のマシュー・プリチャードはクリスティ自身が冗談めかしてこのように語ったとしている(「オリエント急行殺人事件」DVD特典インタビューより)。

1943年 『カーテン』および『スリーピングマーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。
1952年 書下ろしの戯曲『ねずみとり』の世界最長ロングラン公演(1952年11月25日 - )始まる。
1955年 MWA賞巨匠賞 受賞。
1956年 大英勲章第三位 (CBE) 叙勲。
1971年 大英勲章第二位 (DBE) 叙勲。
1973年 『運命の裏木戸』を発表。最後に執筆されたミステリ作品となる。
1975年 『カーテン』の発表を許可する。
1976年1月12日 高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去。死後『スリーピングマーダー』が発表される。遺骸は、イギリスのチョルシーにあるセント・メアリ教会の墓地に埋葬された。
2009年には「犬のボール」など未発表短編2篇が発見され、創作ノート『アガサ・クリスティの秘密ノート(上・下)』とともに公刊された。

失踪事件
アガサ・クリスティ失踪事件とは、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅を出たまま行方不明となった事件を指す。これが推理小説の歴史に名を残す大事件、すなわち Agatha Eleven Missing である。事件は11日後に保養地のホテルに別人名義で宿泊していた彼女が家族の確認の上で保護されることで決着した。

なぜ失踪したのかについては諸説あり伝記作家の間でもこの件については意見が分かれているが、自伝では事件について触れていない。しかしこの事件の結果としてマスコミに喰いものにされたアガサが心に傷を負った点、そしてこれ以降のアガサの内面世界は徐々に変化を見せた点に関しては一致している。

当時のアガサはロンドンの金融街で働いていた年下の夫のアーチー、一人娘のロザリンド(当時7歳)と田舎の大邸宅で暮らしていた。アーチーは休日はゴルフに熱中しているが、妻はゴルフはせず家事はメイドを雇い、仕事に関しては秘書のシャーロットを住まわせていた。シャーロットはアガサの信頼を得て長く彼女の側で勤めることになる。

キャリアにおいては『アクロイド殺し』(1926年)によりベストセラー作家の仲間入りを果たす一方で事件の前には最愛の母親を亡くし、また夫には別に恋人がいた事実にアガサは傷つけられていた。事件の起きた日、アガサは住み込みのメイドに行き先を告げずに外出すると伝え、当時は珍しかった自動車を自ら運転して一人で出かけている。その際に彼女は秘書のシャーロットと夫に手紙を残している。

なお、この失踪事件を題材に独自の解釈でアガサをめぐる人間模様を描いた映画『アガサ 愛の失踪事件』が1979年に公開された。

登場する主な探偵
エルキュール・ポアロ(相棒としてアーサー・ヘイスティングズ)
ミス・ジェーン・マープル
パーカー・パイン
ハーリ・クィン(レギュラーとしてサタースウェイト)
バトル警視
トミーとタペンス

エジプト墳墓の謎ほか―アガサ・クリスティ推理コレクション〈1〉 (偕成社文庫)

エジプト墳墓の謎ほか―アガサ・クリスティ推理コレクション〈1〉 (偕成社文庫)