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NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「あさが来た」の視聴率好調

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「あさが来た」が好調。

幕末から大正という激動の時代を駆け抜けた女性実業家・あさ(波瑠)の生涯を描く作品だが、視聴感は爽やかで、脚本や演出、役者陣の演技はうまい。

あさの「びっくりぽん」という謎の口癖が何となく耳に残っている。


※ストーリー
 京都の商家に生まれたあさ(波瑠)は、姉のはつ(宮崎あおい)と大阪の老舗両替屋に嫁ぐ。

だが、夫の新次郎(玉木宏)は「金もうけは性にあわんねん」と言っては遊興三昧で、はつの嫁ぎ先に至っては夜逃げするなど、苦境の連続だ。しかし、あさ(波瑠)は決して諦めず、炭坑など新規事業を次々と立ち上げていく。

●視聴率は右肩上がり。幕末から明治への激動期を描くスケールの大きな作風が、広く受け入れられている。


 初回放送(9月28日)の平均視聴率は21・2%。以後、徐々に数字を伸ばし、12月3日には自己最高の25・8%を記録した。


●物語のテーマは真っすぐで、貧困や戦争など障害も多い。しかし、登場人物の会話は軽妙で、ユーモラスさを忘れない。決めぜりふや演技力のある子役、嫁への“いけず”など、「朝ドラ名物」もほどよく盛り込まれている。

波瑠はこれまで「あまちゃん」など朝ドラのオーディションを3回受け、いずれも落ち続けた過去を持つ。


「波瑠さんには苦労を乗り越えた人特有の“華”があるが、その苦労を表に出さないだけでなく、演技に気品を感じさせる。W主演ともいえる(姉役の)宮崎あおいさんもいいとの好評価。

「良妻賢母型のはつと、葛藤しながらも自分の道を進むあさ。この2人が常に対照的に描かれており、視聴者はどちらかに共感できる」。

 

広岡浅子という実在の女性実業家がモデル。「一代の女傑」といわれたこの女性、どんな女性だったのだろうか。

 広岡浅子は嘉永2(1849)年、京都生まれ。17歳で大坂の豪商・加島屋に嫁ぎ、その手腕で経営を立て直した。以後、銀行設立や大同生命保険の創業に携わり、日本初の女子大である日本女子大学校(現日本女子大)の設立にも関わるなど、驚くべき行動力を見せた。

 座右の銘は、七転び八起きを超える「九転び十起き」。日本女子大設立の際は自ら政財界の有力者に女子教育の必要性を説いて回るなど、やると決めたらとことんやり抜く性格だったという。大正8(1919)年、「普段から言っていることが遺言」と言い残し、享年71(満69歳)で生涯の幕を閉じている。


★広岡 浅子(ひろおか あさこ、旧字:廣岡淺子。1849年10月18日(嘉永2年9月3日) - 1919年(大正8年)1月14日)は、日本の実業家、教育者、社会運動家。

ペンネームは九転十起生(きゅうてんじっきせい)。明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から「一代の女傑」と称えられた

 

広岡 浅子ひろおか あさこ

生誕1849年10月18日
山城国京都(現・京都府京都市)

死没1919年1月14日(満69歳没)東京府

1849-1919 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)2年9月3日生まれ。三井高益の4女。17歳で大坂の富豪加島屋(かじまや)広岡信五郎と結婚。維新後は実業界にはいり,鉱山を経営。加島銀行設立,大同生命の創業にくわわった。日本女子大の創立にもつくした。晩年に受洗。日本YWCA中央委員。大正8年1月14日死去。

別名
照(幼名)

職業 実業家・教育者・社会運動家

配偶者 広岡信五郎

子供 広岡亀子

親 父:三井高益


経歴

生い立ち

山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女(妾の子で後に養女となった)として生まれる。幼名は照。幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持つが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。9歳で父親が没し、35歳の高喜が家長となる。

17歳(数え年、以下同様)で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった第8代加島屋久右衛門正饒(まさあつ)の次男・広岡信五郎と結婚。嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、簿記や算術などを独学するようになる。

20歳で明治維新の動乱を迎え、家運の傾いた加島屋を救うために実業界に身を投じ、夭逝した正饒の長男に代わり加島屋当主となった第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、夫の広岡信五郎と共に、加島屋の立て直しに奔走する。

明治の女性実業家として

1884年(明治17年)ごろから炭鉱事業に参画し、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)を買収して、開発に着手。その際、単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫らと起き伏しを共にしたと伝えられている。このように男もためらうような冒険的事業に敢えて乗り出したので、狂気扱いされたこともたびたびであったという。

1888年(明治21年)に加島銀行を設立。続いて1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となる。これらの活躍により、広岡浅子は鈴木米(鈴木商店)、峰島喜代子(尾張屋銀行)らとともに、明治の代表的な女性実業家としてその名を馳せる。

日本女子大学校の設立に尽力

1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬の著書である『女子教育論』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は、『女子教育論』で成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となる。また広岡家はもとより、実家の三井家一門にも働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導く。

その後

1904年(明治37年)に夫の信五郎が死去したのを機に、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、以後は社会貢献事業に専念する。同年日露戦争が始まり、愛国婦人会に参加し、中心的人物として活動する。乳がんのため、60歳のときに受けた胸部の腫瘍手術から無事生還できたことをきっかけに、回復後の1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せ、同性の啓発に努める。

「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による『心霊の覚醒』や自らの宗教的信条を記した『一週一信』を出版して日本のキリスト教化に励んだ[6]。日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長を務めた。

日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年(1918年)までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。

1919年(大正8年)、腎臓炎のため東京・麻布材木町(現・六本木6丁目)の別邸にて死去。
「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われる。生前から「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していた。葬儀は東京と大阪で2度行なわれ、浅子の功績を称え、日本女子大学校では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。

家族

小石川三井家
父 - 三井高益(1799年 - 1858年) - 小石川三井家6代当主。京都市上京区大黒屋町に広大な屋敷を構えていた。その一部は現在、ホテル「ルビノ京都堀川」になっている。正妻との間に三女一男があったがいずれも早世、高喜を別の三井家(南家)から養子に取り、48歳のとき家督を譲った。浅子は高益50歳のときの娘で、別腹の子[11]。浅子の姉・春も別腹で、二人とも母親の名は不明。59歳で没。
義兄 - 三井高喜(1823年 - 1894年) - 小石川三井家7代当主。号は三郎助。三井の南家より高益の養子となり、家督を継ぐ。28歳のときに、2歳の浅子を義妹として入籍。
春は養女として入籍。
異母姉 - 春(1847年 - 1872年) - 浅子より2歳上の異母姉。高喜の養女として三井家に入家。浅子が嫁いだ6日後に両替商の天王寺屋五兵衛に嫁ぐ。25歳で没。
義甥 - 三井高景(1850年 - 1912年) - 高喜の長男。浅子と1歳違いで姉弟同然に育ち、浅子からは「愛弟」と呼ばれた。幼名は弁蔵。小石川家第8代当主となり、号は三郎助。妻の寿天子とともに浅子の学校設立を支援した。

広岡家
夫 - 広岡信五郎(1841年 - 1904年) - 第8代広岡久右衛門正饒の次男。早くに分家の嫡男として養子に出る。尼崎紡績(後のユニチカ)初代社長[17]。大阪運河取締役。観世流の謡曲が趣味。妻によく従う夫として知られていた。浅子との間に一女、女中ムメ(小藤とも)との間に三女一男。
長男の松三郎(1888年 - 1971年[20])は大同生命保険4代目社長に就任。
長女 - 広岡亀子(1876年 - 1973年) - 浅子の一人娘。明治9年(1876)10月生まれ。
女婿 - 広岡恵三(1876年 - 1952年) - 子爵・一柳末徳の次男。東京帝大卒業後三井銀行を経て、加島屋経営に加わる。加島銀行頭取、大同生命2代目社長。大阪電気軌道初代社長にも就任したが、浅子がリスクを察知して辞任させた。
父親と不仲だった実妹の一柳満喜子も留学前の若いころ広岡家で暮らしていた。恵三の神戸市東灘区の私邸は、現在甲南女子大学になっている。
義弟 - 第9代広岡久右衛門正秋(1844年 - 1909年) - 夫の弟。加島銀行初代頭取、大同生命初代社長。
養女 - 貴登(きと)、寿天子(すてこ) - 貴登は三井北家(惣領家)の三井高棟の妻。寿天子は浅子の義理の甥の三井高景の妻。ともに広岡信五郎・浅子夫妻の養女として嫁いだ。

★波瑠(はる、1991年6月17日 - )は、日本の女優、タレント、ファッションモデル。

東京都足立区出身。ホリエージェンシー所属。


生年月日 1991年6月17日(24歳)

出生地 日本 東京都足立区

身長 164 cm

血液型 O型

職業 女優・ファッションモデル
来歴

2004年、中学1年生の時にプロモーションビデオのオーディションに応募し、その時にスカウトされ芸能界入り。

最初の数年は全く仕事がなかったものの、2006年、WOWOWのドラマ『対岸の彼女』でエキストラのような形でデビュー。同年、SONY Walkman × NET JUKENETのCMでCM初出演[2]。背中からケーブルが生えてしまったことに最初は戸惑うものの、天地を逆転させたセットで激しく弾き踊りながら、天井はおろか外にまで飛び出していくという女子生徒を演じた。

さらに、『だからワタシを座らせて。 通勤電車で座る技術!』で映画初出演、『14才の母』で連ドラ初出演。しかし、デビューしてから何年かは、2008年の映画『リアル鬼ごっこ』の冒頭で電車に跳ね飛ばされて亡くなるだけの役のような台詞も何もない役がほとんどだった。

2007年5月よりファッション雑誌『セブンティーン』の専属モデルとして活動。同年、映画『檸檬のころ』に出演した際に、役作りのために独学でギターを覚えた。

また、時間約10分程度のショートムービー『恋のポロロン』で映画初主演。

2008年4月 - 翌年4月まで『めざましテレビ』内のコーナー『MOTTOいまドキ!』でいまドキ娘を担当。

さらに、「I miss you/MESSAGE〜明日の僕へ〜」でCDデビュー。

また、FUNKY MONKEY BABYS の「告白」でPV初出演。

さらに、映画『恋空』に続きドラマの恋空にも出演。

2009年、映画『山形スクリーム』に波来前胸恵役で出演し、チェーンソーを使った迫力あるアクションシーンを熱演。

また、女優としての意識が変化するきっかけになったという映画『女の子ものがたり』にも出演。当時のことは、女優という自覚も演技力もまだまだで、「全然できなかったんです、お芝居が。自分のレベルが低すぎて、監督から求められていることに応えられない。今まではこのレベルで許されていただけなんだ、と悟りました。」と振り返っている。

2010年、『マリア様がみてる』小笠原祥子役で長編映画初主演。

2012年3月に表紙を7回務めた『Seventeen』を卒業、同年4月より『non-no』専属モデルとして活動。

さらに、NTTdocomo BOOKストアのCMに新人の村松役で出演[2]。スーツ姿で猛ダッシュしたり、ゲリラ豪雨でずぶ濡れになったり、上司に大目玉をくらったりといったハードな撮影を、透明感のある演技でやり遂げた。

同年5月、現在の公式ブログ(「Haru's official blog」・アメーバブログ)を開設。

2013年4月から2014年3月まで『A-Studio』のアシスタントを担当。

さらに、スペシャルドラマ『いねむり先生』では夏目雅子をモデルとしているマサコ役を演じた。

また、22歳で出演したドラマ『ノーコン・キッド 〜ぼくらのゲーム史〜』では、美人ゲーマー・高野文美の15歳から45歳までを1人で演じた。

2014年、『おそろし〜三島屋変調百物語』でドラマ初主演。さらに、『がじまる食堂の恋』で長編映画単独初主演。

2015年、映画『アゲイン 28年目の甲子園』にマスターズ甲子園のスタッフの役で出演。役作りのため、実際にマスターズ甲子園を観戦し、ボランティアの仕事ぶりも学んだ。

同年3月12日、NHK連続テレビ小説『あさが来た』のヒロイン・白岡あさ役に決定したと発表される。

また、その約1週間後の3月20日に自身のブログにて、表紙を3回務めた『non-no』を卒業すると報告している。

これまで、端役での出演が多く、また、メジャーとは言い難い作品にも数多く出演しているため、上記以外にも数多くのドラマや映画に出演している