東日本大震災から5年後の思い
2011(平成23)年3月11日14時46分 地震だ~。
私が事務所の机で取引先と電話中に地震が起きた。相手に訳を話してすぐに電話を切る。
すぐに机の下に身を隠した。揺れはしばらく続く。
そのうち今日は退社ということになり、身支度をしてビルを出る。
通りは人でいっぱいあふれかえっている。車は渋滞。
仙台駅まで歩く。15分。 いつもの通勤のバスも電車も不通。
仕方なく徒歩で我が家まで帰ることにした。雪の中、時間にして3時間かかった。疲れた。
家に帰ると妻が大変なことになったと言う。幸い我が家は山の手だったので、津波の心配はなかった。
妻は少し片付けたようだが1階の居間、台所は物が散乱している。ガラス、食器、本などがめちゃくちゃ。2階の私の書斎、オーディオルームは本棚やPCが倒れ、足の踏み場もない状態。まいりました。
(参考)食器棚の観音開きは避けた方がよい。地震には不適切。
妻は「電気、水道、ガスが全面ストップ」という。
これより電気、水道、ガスなしの現生活が約一か月続く。
●この時お世話になったのが給水車。
不幸中の幸いで自家用車のガソリンは8割ほどあったので近くの中学行へ水をもらいに行く。
給水車は一日1回時間は決まっていたが、時間通りには来ません。それでも
待つこと1-2時間でようやく給水車が来てくれた。容器をたくさん持っていくも制限があり、一人、タンクは1個分であった。それでもありがたい。
給水車はすべて他県ナンバーであった。
震災時に印象的なのは神戸ナンバーと福岡県ナンバーであった。
神戸ナンバーの給水車の方に聞いてみると「阪神・淡路大震災」の時に宮城の方にお世話になったお礼ですという。胸がじぃーんと熱くなった。ウルウル~涙目。
福岡県ナンバーは私の生まれ故郷が福岡だったので故郷から私を助けに応援に来たのだと勝手に思い込み元気づけられた。
後日北九州で同窓会があり、雑談する機会があった。
「実はあの時福岡から車で仙台迄自前で、支援に行き、寝袋で寝泊まりしました。」。と仲間に言われ、感激してお礼を述べ、思わずハグしてしました。
●もう一つ小学生の作った芋煮をごちそうになる。
道路が寸断されていて、いつものスーパーには食料品が届かない。
当時、米はあるのだが御飯は炊けず、どうしたものかと思案していた時に班長さんより連絡があり、小学校で炊き出しをやるから利用してくださいとの連絡があった。
これ幸いと行ってみるとなんと小学生がおにぎりと、ペットボトルのみずと芋煮を無料で配っているのです。
小さい小学生の女の子が芋煮(全国的には豚汁)を「どうぞ」と言っているではありませんか。
まさかこの年になって小学生の世話になるとは思いませんでした。
聞いてみるとお母さんたちに教わって小学生(男女)たちだけで芋煮を作ったというのです。
すご~い。図々しくもお代わりをしてしまいました。
後日美談として新聞報道されました。
この時の少女との顔と芋煮の味は最高で生涯忘れられない味となった。
2011年3/11日から今日2016年3月11日で5年を迎えます。
ありがたいことに2011年3/11日から今日まで実にたくさんの人達(国内外)がいろんな形(人・物・金・情報)で支援してくださっています。
この場をお借りしてお礼を申し上げます。
支援や援助が5年たった今でも有志さんたちによって続けられています。
口癖に言われることは「今自分ができることで何かしてあげたかった」
うれしいではありませんか。現代は資本主義社会です。最小の費用で最大の効果を求められます。
でもね♪~
彼らは何も見返りを求めていない、「無償の愛」なのです。
ありがたいことです。
今まで人様のお世話になるということは思いもしなかっただけに、考えさせられました。
人類みな兄弟。人は生かされている。
この時3/11日が私の「精神革命日」です。
人様の為に何かをしてあげたい。しなければならない。
今自分ができることはなんなのだろうか。
生かされた自分は、不幸にして亡くなられた方々の分まで精一杯生き、「奉仕に明け奉仕に暮れる」我が身でありたいと思う今日この頃です。
★東日本大震災
東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい、ひがしにっぽんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である。