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春夏秋冬、風に吹かれて無常の世を漂い、旅する愛しき日々

日々のニュースや出来事・記念日・季節祭事・催事・時事・情報・気づき、等を風に吹かれながらまったりとお知らせしています。

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「春風や闘志いだきて丘にたつ」の世界で吹くのは「そよ風か寒風か?」

四季・春夏秋冬 雑感 

昨日も今日もみちのくは最高気温が10℃を超えました。

私は2017年3月5日の啓蟄よろしく、布団を1枚めくって寝ています。

しかし外では風が強く吹いていて、春はまだ遠しという感じです。


弥生三月は私にとっては別れの時です。

蛍の光窓の雪♪~ウルウル。卒業式の季節です。

 

そんな時私の心の中に思い起こさせる歌と俳句があります。

「早春賦」と「なごり雪」そして「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句です。

最近は「春なのに♪~」もレパートリーに入るようになりました。
 
春は名のみの 風の寒さや♪~
 メロディと歌詞が今の季節にぴったりですね。
春を待つ気持ちが良く現れた歌だと思います。

「なごり雪」は忘れ雪とも言います。美しい日本語ですね。

なごり雪も降る時を知り♪~

去年よりずっときれいになった♪~ 小雪のちらつく駅のホームが目に浮かびます。

 

イルカはあるコンサートで「去年よりずっときれいになった♪~」と何回も歌っていますがちっともきれいにならずに年を取っていくだけですと冗談を言っていました。


さて 
「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句はモネの「パラソルをさす女」かそれとも坂本龍馬か?

「春風や闘志いだきて丘にたつ」という句は
【季語が「春風」で通常は「はるかぜ」と読みます。
「春風や」で句切れになり場面が転換します。】というのが教科書的解釈でしょう。もちろん「はるかぜ」と読むココロもあると思います。
 
しかしこの句「春風や闘志いだきて丘にたつ」に限っては
「春風」は「はるかぜ」と読まずに「しゅんぷう」と読むのが妥当だと思います。

意味又は私的解釈として意訳すると
「おお吹きすさぶしゅんぷうよ、我はこれから厳しく困難な目標に立ち向かい、挑戦していくのだ」。となります。
カッコイイですね。

初めてこの俳句に接したときに電流が全身にビビット~と流れ、しびれました。
 
「春風や闘志いだきて丘にたつ」はダンディズムの極みといえます。
 
この句「春風や闘志いだきて丘にたつ」は、いわば決意表明なのです。
自ら目標を立て、それに立ち向かうとき男の表情は自然と険しくなります。

逆境に凛として立つ青年の姿を思い浮かべますし、よりみなぎる闘志が感じられます。つい応援したくなりますね。春風は逆境をイメージしているのです。

逆境に対し負けないぞという『闘志』が感じられます。

「頑張って~」 
ここで「はるかぜ」と読んだのでは丘の上に立つ、長い緑の黒髪の少女や女性をイメージしてしまいますし、美しいイメージなのですが力がもう一つ入りませんね。
 
「春風や闘志いだきて丘にたつ」 
プチ女子力アップの為がんばるわ。
丘の上、ひなげしの花で♪~ (アグネスチャン)
はるかぜそよぐ丘の上に立つ人というとやはり女性ですね。
 
「春風や闘志いだきて丘にたつ」 を
「はるかぜ」だと少女が長いストレートヘアーを靡かせ、白いブラウスにピンク系ミモレ丈のフレアースカートがひらひらしているさまが想像されます。

オルセ−美術館にある2枚のクロード・モネ「日傘の女・パラソルを差す女」を思い浮かべていただきたい。


「散歩、日傘をさす女性」―クロード・モネに寄せて

私の呼びかけに手を振って「あなた~」と応えている穏やかな光景が眼に浮かびます。
 
 「春風や闘志いだきて丘にたつ」の解釈で
はるかぜは温かい&心地よい風であり、ほんわかモードで、厳しさが感じられません。


 一方「春風や闘志いだきて丘にたつ」を「しゅんぷう」と感じ取ると
肌を突き刺すような風の中、新しい目標に向かい、男が挑戦していく様は並々ならぬ決意が読み取れます。
いわば逆境に向かって不屈の闘志をみなぎらせているのです。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」の
「しゅんぷう」は逆境をイメージしているのです。
心地よい春風の中に果たして「闘志」がみなぎるのでしょうか。

春風を「はるかぜ」と「シュンプウ」で何回も音読してもらいたいのです。
 
そうすると、ほんわかした「はるかぜ」はふさわしくなく、やはり「しゅんぷう」が厳しさを感じさせ、身震いさえ覚えます。いいじゃアーりませんか。

「しゅんぷう」のココロは闘志にあり、読み解くキーワードは正に「闘志」にあるといえます。「闘志」こそが作者の思いなのです。
 
歴史上の人物でいうと「坂本龍馬」を思い浮かべます。桂浜の砂丘で大海に向かい、日本の夜明けを夢見て叫んでいる感じですね。
 
「俺は負けんぜよ~」イケイケ~GOGO~!
 
新年度・新学期には「よし!やってやるぞ~」と勇ましく、希望に燃えて生きたいですね。

又ココロガ折れそうになった時、高浜虚子の「春風や闘志いだきて丘にたつ」 というこの句 を思い出していただきたい。「春風や闘志いだきて丘にたつ」はきっと人生のビタミン剤になることでしょう。
 
新入生、新入社員の皆さん、良い子もそうでない子も

林先生曰く「いつやるか、今でしょ!」

 
★高浜虚子(たかはま きょし)
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 虛子、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)は明治・昭和期の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体:高濱 淸)。
ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。
 
高浜 虚子:  俳人・小説家。愛媛の生まれ。本名、清(きよし)。正岡子規に師事。俳誌「ホトトギス」を継承して主宰、多くの門下を育てた。句風は客観写生・花鳥諷詠に立ち、平明で余情が深い。文化勲章受章。著「虚子句集」「五百句」、小説「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」「俳諧師」など。
1907年ころ小説や写生文を書いて一時俳壇を離れたが,のち復帰し,河東碧梧桐らの新傾向俳句を批判,〈客観写生〉〈花鳥諷詠(ふうえい)〉を説いて,俳句の伝統擁護に努めた。
経歴
愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。
1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)子規より虚子の号を授かる。
1893年(明治26年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。
1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも拒否(いわゆる「道灌山事件」)。
1897年(明治30年)、元来碧梧桐の婚約者でありながら碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚。
1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由に除籍され生活に困窮する。子規の協力を得て前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。
1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごした。
 
1913年(大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。
同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰にホトトギスの編集一切を任せる旨を表明した。
1937年(昭和12年)芸術院会員。1940年(昭和15年)日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。
1954年(昭和29年)、文化勲章受章。1959年(昭和34年)4月8日、85歳で永眠。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌(ちんじゅき)という。生涯に20万句を超える俳句を詠んだ。
2000年(平成12年)3月28日、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が開館。4月、兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館。


■作家評
子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。
そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。
しかしまた反面、碧梧桐が亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。
俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即ホトトギスであったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。
「ホトトギス」からは飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している。

■句集
『虚子句集』
『五百句』
『七百五十句』
『六百句』
『虚子俳話』
『句日記』
■小説集
『鶏頭』
『柿二つ』
『俳諧師』
『虹』
■文学館
虚子記念文学館虚子記念文学館
神戸文学館
■栄典
1959年(昭和34年)4月8日:勲一等瑞宝章


★クロード・モネ
クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 -1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。

今日のブログは2015年3月15日の日記に加筆したものです。