風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)

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4月8日は潅仏会、忠犬ハチ公の日、参考書の日、折り紙供養の日、タイヤの日、指圧の日などの記念日です。

4月8日は潅仏会、忠犬ハチ公の日、参考書の日、折り紙供養の日、タイヤの日、指圧の日などの記念日です。

 

□潅仏会(花祭り仏生会浴仏会)

釈迦の降誕を祝して行う法会。

各地の寺では花御堂を設け、堂の中に水盤を置いて釈迦の立像を中央に安置し、参詣者が御像に甘茶を注いでお参りする。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生の時9つの龍が天から清浄の水を注ぎ産湯を使わせたという伝説に由来する。

子供の頃甘茶ほしさに良く、お寺に行きました。

関西では月遅れの5月8日に行われる。

 

▲世界ロマの日

1990年の国際ロマ連盟の総会で制定。

ヨーロッパの移動型民族であるロマに関する問題について啓発し、ロマの文化を記念する日。

 

忠犬ハチ公の日

忠犬ハチ公銅像及び秋田犬群像維持会が制定。1936年から、この日に慰霊祭が行われている。

ハチ公は、東大農学部の上野英三郎博士に飼われていた秋田犬だった。1923年に秋田県大館市で生まれ、1924年から上野博士に飼われることになった。上野博士の存命中は、玄関先や門の前で上野博士を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えすることもあった。そして、上野博士が1925年5月に突然亡くなった後も、毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けた。

主人を慕うハチ公の一途な姿は人々に感銘を与え、忠犬と呼ばれるようになり、1934年4月、渋谷駅前に銅像が建てられた。銅像の除幕式にはハチ公自身も出席している。そして1935年3月8日に10歳余りで一生を終えた。

ハチ公の銅像は第二次大戦中に供出され、現在のものは1947年8月に再建されたものである。

 

○参考書の日

学習書協会が1984年に制定。

花祭りの日であり、全国的に入学式が多いこの日が選ばれた。

○折り紙供養の日

折り紙作家の河合豊彰さんが提唱。

花祭りの4月8日と達磨忌の10月5日。
関連記念日 •折り紙供養の日 <10月5日>

 

○タイヤの日

日本自動車タイヤ協会が制定。

4月は春の交通安全運動が行われる月であり、8がタイヤをイメージさせることから。
関連サイト •日本自動車タイヤ協会 http://www.jatma.or.jp

 

○指圧の日

日本指圧協会が制定。

この日が釈迦の誕生日「花祭り」で、釈迦の慈愛の心が指圧の母心に通じる物があるということと、四(し)八(はつ→あつ)で「しあつ」の語呂合せから。

★浪越 徳治郎(なみこし とくじろう、1905年11月15日 - 2000年9月25日)は、香川県仲多度郡多度津町出身。指圧療法創始者。日本指圧協会元会長。
経歴

7歳のとき、北海道虻田郡留寿都村に移住。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。後にこの技術を指圧と名づけ、多くの人にその技術を広めるため、1940年、東京市小石川区に指圧学校を設立した。

マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃痙攣(けいれん)で体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人である。
このことについて浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。

他にも、モハメド・アリ吉田茂首相をはじめとした歴代の内閣総理大臣A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。

1971年には無所属で第9回参議院議員通常選挙全国区に立候補したが落選した。

テレビドラマやバラエティ番組などにも数多く出演。特に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)では、当初、「アーッハッハ」という豪快な笑い声から「アッハー浪越」の名前で登場。後に、ジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたためそのリアクションから「ジェット浪越」と命名され、一般人から発掘された福島出身の吉田十三(通称「エンペラー吉田」)とのコンビで知名度を上げた。

「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決め台詞は、特に有名である。

2000年9月25日午前3時7分に、肺炎のため東京都文京区の病院で家族に見守られて94歳で死去した。日刊スポーツによると、浪越は「100歳まで生きる」と遺言をしていたという。

墓所は東京都文京区小石川三丁目の伝通院。寺の境内には生前浪越が寄贈した指塚がある。日本指圧専門学校は同寺の傍に所在する。


○出発の日

味の素が制定。

四(し)八(はつ)で「しゅっぱつ」の語呂合せ。

新生活のスタートの時期にあわせ、乱れがちな生活リズムを整えるために朝食をきちんと摂るよう呼び掛ける。

 

○シワ対策の日

基礎化粧品会社・クリスタルジェミー社長の中島香里氏が制定。

四(し)八(わ)で「しわ」の語呂合せ。
関連記念日 •シミ対策の日 <4月3日>
•美白の日 <8月9日>

 

○ヴィーナスの日

1820年のこの日、エーゲ海のメロス島の農夫がヴィーナス像を発見した。

「ミロのヴィーナス」として知られており、紀元前130年頃に作られたとされている。

 

■ハチ公と上野英三郎博士像について
【ご報告】ハチ公と上野英三郎博士像が建ちました

【ありがとうございました】

 ハチ公没後80年にあたる2015年3月8日に,無事,ハチ公と上野英三郎博士像除幕式を行うことができました。
 除幕式では,小雨の中にも関わらず,数百人の皆様にハチと上野博士の再会を祝福していただきました。 像建立にご協力いただきました皆様,当日ご参列いただいた皆様に感謝申し上げます。
  今後もハチ公と上野英三郎博士像は,東京大学農学部キャンパス内で皆様をお待ちしております。この像が「人と動物の相互敬愛の象徴」として愛されることを願います。 お近くにお越しの際は,90年ぶりに再会したハチと上野博士の姿をぜひご覧ください。


農学部正門開門時間 平日 6:30-24:30,休日 7:00-24:30 どなたでも入門可能です。
「ハチ公と上野英三郎博士像」は農学部正門入って左(アネックス前)です。
また,農学部正門入ってすぐ右に「農学資料館」があります。 こちらには,上野英三郎博士の胸像,ハチ公の臓器を展示しております。
 合わせてご覧ください。

■「忠犬ハチ公」80年目の命日にあたる3月8日、東京大学農学部で新銅像の除幕式が開かれた。飼い主の上野英三郎博士をハチが出迎えるシーンを描いたもので、上野博士の死後、90年ぶりの再会となった。

ハチは上野博士が亡くなった後も、10年ちかく東京の渋谷駅に通い、飼い主の帰りを待ち続けていた。「ハチ公の銅像」は渋谷駅の待ち合わせスポットとして今も親しまれている。

東大農学部に設置された新銅像は、上野博士が農学部の前身となる東京帝国大学農科大学の教授だった縁で農学部の有志が呼びかけた。1000万円を超える寄付金が集まり、名古屋市在住の彫刻家、植田努さんが完成させた。

式典で白幕が引かれて、ハチと上野博士の姿が露わになると、数百人の観衆の拍手でいっぱいに。「やっと会えたね!」と祝福する声も出た。

 

忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)は、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約9年間のあいだ待ち続けたという犬である。犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、名前はハチ。ハチ公の愛称でも呼ばれている。

渋谷駅前にはハチの銅像が設置されており、この「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっている。

別名・愛称 忠犬ハチ公

生物 イヌ

犬種 秋田犬(あきたいぬ)

生誕1923年(大正12年)11月10日
 日本 秋田県北秋田郡二井田村 (現・大館市

死没 1935年3月8日(満11歳没)
 日本 東京府東京市渋谷区

飼い主 上野英三郎

概要
ハチは、飼い主が死亡した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られる。東京・渋谷をはじめ、ゆかりの地には像が置かれており、渋谷駅前のハチ公銅像はいつしか待ち合わせの目印として使われるようになり、その銅像周囲は待ち合わせ場所として「ハチ公前」などとして親しまれている。

ハチの飼い主は東京府豊多摩郡渋谷町(現:東京都渋谷区)に住んでいた大学教授・上野英三郎であった。彼は大変な愛犬家であり、出かけるときには渋谷駅までハチを伴うことも多かった。しかしながらハチを飼い始めた翌年にあたる1925年(大正14年)に上野は急死した。

上野英三郎の死後も渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

さらに、1934年(昭和9年)には渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除幕式にはハチ自身も参列した。同じく1934年(昭和9年)に尋常小学校2年生の修身の教科書にも、「恩ヲ忘レルナ」というハチの物語が採用された。

ハチの銅像は第二次大戦中の資材供出によって破壊されたが、戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目印となって立像している。

ハチの生涯
生誕
ハチは1923年(大正12年)11月10日[4]、秋田県北秋田郡二井田村(現・大館市)大子内の斉藤義一宅で誕生した。父犬の名は「オオシナイ(大子内)」、母犬の名は「ゴマ(胡麻)」であった。

上野宅での生活
東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野は秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望があり、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられることになった。ハチの価格は30円(当時)であり、生後間もない1924年(大正13年)1月14日、米俵に入れられて大館駅を出発、急行第702列車の荷物車にて20時間の移動後、東京の上野駅に到着した。

上野の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現:渋谷区松濤一丁目付近)にあり、ハチは、「ジョン」と「エス (S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。このうちポインター犬のジョンは、特にハチの面倒見がよかった。

ハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。

上野の死後
ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、主人・上野は農学部教授会会議の後に脳溢血で倒れ、急死してしまう。ハチは、この後3日間は何も食べなかった。同25日には故主・上野の通夜が行われたが、その日もハチは、ジョンとSと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行っていたという。

その後、ハチは上野の妻、八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられるが、人懐っこい性格から店に客が来るとすぐ飛びついてしまうため商売にならず、そのため浅草の高橋千吉(高橋子之吉)宅へと移された。

しかし、ハチの上野を慕う心は甚だしかったためか、散歩中渋谷に向かって逸走するなどのことがあるほどだった。さらに、ここでもハチのことで、高橋と近所の住人との間でもめごとが起こり、ハチは再び渋谷の上野宅へ戻されてしまう。

渋谷に戻ったハチは近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうということから、今度は渋谷の隣、豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)に住んでいた上野宅出入りの植木職人でハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられる。

ハチが代々木富ケ谷の小林宅に移ったのは上野が死亡してから2年余りがたった1927年(昭和2年)秋のことであったが、この頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになった。

ハチは小林にもねんごろに愛育されていたのにもかかわらず、渋谷駅を訪れては道行く人々を見、食事のために小林宅に戻ってはまた渋谷駅に向かうということを繰り返していた。

ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の渋谷大向にある旧上野邸に必ず立ち寄って、窓から中を覗いていたという。

忠犬ハチ公
渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となっていた。

一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。

これは東京朝日新聞に、「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打った。ハチに付いては翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され、さらに広く知られるようになり、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。

ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった。ハチの晩年を写した写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではなく、野犬に噛み付かれた際の後遺症である。

ハチの死亡
青山霊園にあるハチと上野英三郎の墓所
上野が死去してから10年近くが経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口で死んでいるのを発見された。ここは渋谷駅の反対側で、普段はハチが行かない場所であった。

ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻・八重や、富ヶ谷の小林夫妻、駅や町内の人々など多数参列した。また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報が180、200円を超える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われたという。

ハチは上野と同じ青山霊園に葬られ、その墓は亡き主人の墓のすぐ隣に寄り添うように立てられた。死体は坂本喜一と内弟子の本田晋によって剥製にされ、現在は東京・上野の国立科学博物館に所蔵され、幾度となくメディアにも登場している。

※雑感

ハチ公と我が家の愛犬とは大違いです。

我が家の愛犬はオスで17歳ほどになりますが、私が外から帰ってきても知らん振りです。

我が家の愛犬はえさを目にした時には擦り寄ってきますが、そのほかの時には目もくれません。

ああ無情~

相手が餌を持っているときだけ「お手」をしますが餌を持ってないと「何の用なの?」という感じで知らん顔です。シラ~

飼い主に愛情を感じているのではなく、餌ににのみ愛情を感じているだけなのです。

餌も偏食気味、高級志向で気に入ったものしか食べません。

ダイエット食はいやいやながら食べています。

憎らしい犬です。

宅配やお客様が来たときには誰にでも近寄ってきてクンクンと愛嬌を振りまきます。

これでは全く番犬の役割をしません。最近は年のせいでしょうか散歩は

こちらがリードしてあげないと歩きません。

いやはや参りますね。

癒しの対象ぐらいにはなりますかね。