風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)

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6月17日は「永遠の処女・伝説の女優」原節子の誕生日です。95歳 青い山脈&麦秋&東京物語 いつ見ても良いですネ

6月17日は砂漠化および干ばつと闘う国際デーですが原節子の誕生日です。


▲砂漠化および干ばつと闘う国際デー(World Day to Combat Desertification and Drought)

1995年の国連総会で制定。国際デーの一つ。

1994(平成6)年のこの日、「国連砂漠化防止条約」が採択された。

砂漠化と旱魃の影響と闘うための国際協力の必要性、および、砂漠化防止条約の実施に対する認識を高める日。

▽独立記念日 [アイスランド]

1944年のこの日、アイスランドがデンマークからの独立を宣言した。

毎月17日

○安全の日

○いなりの日

○国産なす消費拡大の日

●誕生日
1920年原節子[はら・せつこ] (女優)


★原 節子について
原 節子(はら せつこ、1920年(大正9年)6月17日 - )は、日本の元女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。本名は会田 昌江(あいだ まさえ)。

1963年に女優業を引退した。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。

1963年12月12日、小津が60歳の誕生日に死去。その通夜に出席したのを最後に、表舞台には一切姿を見せなくなった。引退宣言も何もないまま銀幕から消えていった。現在にいたる50数年間、世間との関わりを一切断つ生き方は謎を呼び、「伝説の女優」となった。

2000年の「20世紀の映画スター・女優編」(キネマ旬報社刊)で日本女優の第1位に輝くなど、今尚その人気は衰えることはない。 現在もご健在で、鎌倉市で親族と暮らしているという。 6月17日、現在存命中ならば95歳を迎える。

今尚日本映画の女優人気ベスト10や美人女優ベスト10には必ず入ります。

顔やスタイルを一つ一つとってみると必ずしも美人とはいえません。

でもね♪~

全体としてみると美人なのです。

そして台詞が美しい。

「麦秋」のなかで秋田に夫の転勤に付いていく場面で「秋田弁」を友達役の淡島千景としゃべるのだが掛け合いが滑稽で素晴らしい。

原 節子がしゃべると「秋田弁」がなぜかしら美しいのです。

そして原 節子は1963年12月12日、小津が60歳の誕生日に死去したその通夜に出席したのを最後に、表舞台には一切姿を見せなくなった。

私は原 節子が小津安二郎監督とともにココロの中で殉死したのだと思うのである。

人の生き方は様々である。

女優には最後まで現役を続ける人もいる。

原 節子のように監督に殉じ、スクリーンから消え去る人もいる。

善悪や価値判断では計り知れない。

原 節子は後者を選んだ。

原 節子は小津安二郎監督とともにココロの中で殉死することにより、原 節子流の美学を貫き通したのである。


原 節子はファンのココロの中に年をとることもなく、美しいまま永遠にいき続けるのである。

 


本名会田 昌江

生年月日1920年6月17日(94歳)

出生地
 日本・神奈川県横浜市保土ケ谷区

身長165cm

職業女優

ジャンル映画

活動期間 1935年 - 1963年

主な作品

映画
 『わが青春に悔なし』(1946年 黒澤明)
 『安城家の舞踏会』(1947年 吉村公三郎)
 『お嬢さん乾杯』(1949年 木下惠介)
 『青い山脈』(1949年 今井正)
 『晩春』(1949年 小津安二郎)
 『麦秋』(1951年 小津安二郎)
 『めし』(1951年 成瀬巳喜男)
 『東京物語』(1953年 小津安二郎)
 『秋日和』(1960年 小津安二郎)

 

受賞

ブルーリボン賞

主演女優賞
1951年『麦秋』『めし』

その他の賞

毎日映画コンクール
女優演技賞
1949年『青い山脈』『晩春』『お嬢さん乾杯!』
1951年『麦秋』『めし』
 
経歴

神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父藤之助、母ナミの間に生まれる。兄弟は男3人、女5人であった。保土ヶ谷尋常高等小学校から私立横浜高等女学校(現 横浜学園高等学校)に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、女学校を二年で中退した。1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とする。


1936年(昭和11年)、第七回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。

同作の公開後の1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、1937年11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという。)。この年、原は11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。

『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、「もっと勉強してからスターになるべきだった。」と小杉勇が述懐したように、しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることになる。

今井正によれば、戦中の原は義兄熊谷久虎(戦争中に国粋主義思想にのめりこみ映画界を離れて、「すめら塾」という私塾まで創った[7]。)に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという。
太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ、『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。

戦争後の翌年、1946年9月、原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移るが、1947年6月フリーの女優として独立する。

フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。つづく1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。

同年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。(原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。)小津は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。

1949年(昭和24年)には『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品。)。

 原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車にはねられ、不慮の死をとげるという悲劇にあう。小津と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになる。

『晩春』、『麦秋』(51年)、『東京物語』(53年)は演じた役名がすべて紀子で「紀子三部作」と呼ばれる。とりわけ『東京物語』は小津監督の最高傑作となり、原節子もまたこの作品で女優として頂点を極める。

その53年には『白魚』(監督は義兄の熊谷)の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄でカメラマンの会田吉男が列車にはねられ事故死する。

この事件の直後にクランクインしたのが『東京物語』だった。

54年、長年の撮影での強いライトによる照明から白内障を患い、通院を繰り返す。


1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品であった。1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原にとって最後の出演作品となった。しかし、1963年12月12日、小津が東京医科歯科大学附属病院で没し(その日は小津の還暦の誕生日だった)、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。引退宣言も何もないまま銀幕から消えていった。現在にいたる50数年間、世間との関わりを一切断つ生き方は謎を呼び、「伝説の女優」となった。

59歳当時の写真を最後に原 節子の写真は公開されていない。

現在は鎌倉市で親戚と暮らしているとされる。高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。

 

評価

小津安二郎は「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて彼女の方がはるかに巧いとすら思っている」とし、昭和26年には「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。

『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている。」とも語っている。現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活なども同じことから『日本のグレタ・ガルボ』と言われている。

原と同様、小津作品に多数出演した笠智衆は、著書『大船日記』で「原さんは、きれいなだけじゃなく、演技も上手でした。ほとんどNGも出しません。めったなことでは俳優を褒めなかった小津先生が、『あの子はウマいね』とおっしゃっていたのですから、相当なもんです」「普段はおっとりとして、気取らない方でした。美人に似合わずザックバランなところもありました。撮影の合間に、大きな口を開けて『アハハ』と笑っとられたことを覚えています」と回想している。

原と共演したことがある司葉子は、原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」としている