風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)

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3月2日は「ミニの日」と「お水送りの日」 ミニスカートの日?

3月2日は「ミニの日」と「お水送りの日」

「ミ(3)ニ(2)」の語呂合せ。
ミニの日( 日本) 3月2日の「32」が「ミニ」と読めることから。
MINIの輸入元であるBMWジャパンが制定。小さいもの、ミニチュアものを愛そうという日。

私の場合「ミニ」といえばミニスカートです。そして忘れられないのがツイッギーです。

ツイッギーは1967年10月に来日しました。


小枝の名のとおり脚がとても細く綺麗でしたね。驚きでした。

※ツイッギー(英: Twiggy、1949年9月19日 - )は現在は65歳ですが現役の女優さんとして活躍中です。


1960年代前半の日本の女性はまだ太い足でした。(通称は大根足。現代では死語または禁句になっていますが誰もいません。皆さんモデルみたいな脚です。)
1945年(昭和20年)8月15日が終戦の日ですから戦後15年しか経っていなかった時代です。

児島 明子(こじま あきこ、1936年10月29日 - )さんがミス・ユニバース世界大会で優勝したのが1959年(昭和34年)の第8回ミス・ユニバース世界大会です。
児島 明子さんの当時の身長は170cm、スリーサイズは94–58–96cmといわれています。
水着の写真を見てみるとそんなに細いわけではありません。

絶世の美女といわれた原節子(1920年生まれ)さんが映画・青い山脈(1949)のときが29歳、東京物語(1953)のときは33才でした。
このときはロングスカート全盛期です。
原節子さんの足も細くありませんでした。

なぜならば理由があるのです。
当時女性に求められていたのは逞しさだったからです。
丈夫で長持ちする女性が尊ばれていたのです。
戦後の復興と再生が叫ばれていたときにはツイッギーはもてはやされなかったと思います。
もしツイッギーが終戦直後の日本に登場していたら「まあかわいそう。栄養不足なのね」といわれていたと思います。

ミニスカートはファッション革命を起こしたといえるでしょう。

ミニ違いだったでしょうか? 

★ミニスカート(Miniskirt )は、丈の短いスカートの総称である。ミニスカートの長さの基準は特に決まっているわけではないが、一般的には穿いた時、膝が常に見える状態のものからがミニスカートと呼ばれる。

「ミニスカ」、あるいは「ミニ」などと略され、膝上丈よりもさらに短い、太股の中央よりも上の極端に短いものは「マイクロミニスカート(マイクロミニ)」と呼ばれることもある。

歴史
1960年代はプレタポルテの台頭に加えて若者のファッションであるストリートファッションの影響力も強くなっており、その典型的アイテムが『ミニスカート』であった。1960年代後半に世界的に大流行するミニスカートはロンドンのストリート・デザイナーマリー・クワントが若者向けに売り出したことで流行するようになったと言われている。

1965年にはイギリスのアンドレ・クレージュオートクチュールでミニスカートを発表し、同国出身のモデルツイッギーが着用してブームを呼び起こし、これによりミニスカートは世界中に広がった。ツイッギーは1967年10月に来日し、日本にもツイッギー旋風を起こしてミニスカートを流行させた。

日本での歴史
1965年(昭和40年)8月11日、帝人が日本で初めてのミニスカート「テイジンエル」を発売。1967年(昭和42年)に野際陽子がパリから帰国した際に着用していたことが話題になり、同年に美空ひばりがミニスカート姿で『真赤な太陽』を歌謡番組で歌い、脚光を浴びた。それ以来大流行となったが、都市部の若い女性だけにとどまらず、世代を超えて全国津々浦々に広がり、1969年(昭和44年)に首相・佐藤栄作の訪米に同行した首相夫人・佐藤寛子は当時62歳の年齢でミニスカートを着用した。この当時多くの女性のミニスカートはひざ丈よりやや短い程度であった。

また既存のスカートの裾を自ら短くしてミニスカートに改造することも多く、その様は漫画・『サザエさん』でもしばしば描かれている。この第一次ミニスカートブームは交通機関・女性警官・大阪万博での多くのパビリオンのコンパニオンなど女性の制服にも影響したが、1973年(昭和48年)〜1974年(昭和49年)頃には終息した。

その後1982年(昭和57年)頃の小流行を経て、1980年代末から1990年代初頭のバブル期には膝上30~35cmで「超ミニ」、「マイクロミニ」などとも呼ばれるミニスカートが流行した。この流行はボディコンシャスなスタイルの流行に伴うもの。

その後は若年層を除いて極端なミニスカートの流行はみられないが、スカートの丈と経済の好況不況が関連付けて論じられることもある。

日本の中高生の制服
最初にミニスカートが流行した1960年代後半〜1970年代前半にもある程度学校の制服のスカート丈が短くなった時期があったが、当時は学校の校則や年少者に対する社会の締め付けが厳しかったこともあり、学生が制服を明らかなミニスカートに改造することはなかった。

1970年代後半~1990年(平成2年)頃にかけては、制服のスカートを長くすることこそが「格好良い」とされ(スケバン・不良と呼ばれる女子生徒達はこぞって長いスカートを着用した。『なめ猫』や『スケバン刑事』などに代表されるツッパリブーム)、制服のスカート丈は長めとなった。

1990年代中盤以降には、女子高生らにとってのスカート丈は「短いほどカワイイ」ものに変化し、制服のスカートは短く丈詰めしたり、ウエスト部分で折ったり、ベルトでとめるなどして、膝上20cm~40cmに短くして着用されるようになった。また、既成の制服スカートもそれまで定番であったが膝下丈から、膝丈や膝上丈となる制服が多くなった。

ただし、制服のスカート丈の流行には地域差も大きく、例えば大阪・神戸などでは、膝丈もしくは膝下のスカートを着用している生徒も多くみられる。2005年(平成17年)には写真週刊誌『FLASH』が、「制服のスカート丈が全国一短いのは新潟である」と報じて話題となった

■10月18日は「ミニスカートの日」とされている。由来はツイッギーが1967年(昭和42年)に初来日した日であることから。

★ツイッギー(英: Twiggy、1949年9月19日 - )は、イギリスの女優、モデルおよび歌手。現在は結婚後の名前ツイッギー・ローソン(Twiggy Lawson)として広く知られる。

日本での活動
東レトヨタ、森永製菓の3社合同招待にて1967年10月18日17時に羽田へマネージャー兼恋人であるデ・ヴィルヌーヴと共に降り立った彼女はカメラマンの群れを避けるように宿舎である東京ヒルトンホテルへ向かった。

当時のサイズは身長165cm、体重41kg。

彼女はこの頃、年に1000万ドル(36億円)を稼ぎ出す売れっ子ファッションモデルで「ミニ(スカート)の女王」として日本では若い女性から羨望の的とされ、ツイッギーをイメージしたコンテストが催されるほどの加熱ぶりであった。

滞在中は森永製菓の「チョコフレーク」や「トヨタ・コロナ」(1967年)のCM撮影などをこなし、大阪の吉兆を訪れたり、京都の時代祭を楽しんだりした後、11月8日に帰国。
それ以来、何度か来日している。1971年発売の森永「小枝」は、この来日の後、ツイッギー(小枝)の名をヒントに誕生したと言われている。


別名
ツイッギー・ローソン

生年月日
1949年9月19日

現年齢 65歳

1971年のケン・ラッセル監督作品『ボーイ・フレンド』に出演し、女優および歌手としてその活動の幅を広げた。この作品でゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞。その後彼女は映画や演劇で様々な役柄を演じた。

★3月2日(金) お水送り神事
お水送り(日本小浜市若狭神宮寺奈良市東大寺二月堂の修二会の「お水取り」で使う水を、二月堂の井戸につながっているとされる淵に送る行事。


奈良・東大寺二月堂のご本尊にお供えするお香水を送る奈良時代から伝わる神事。「お水送り」で流された水は10日間かけて、奈良・東大寺二月堂で行われる 「お水取り」までたどり着くといわれています。

毎年3月2日に行われ、神宮寺から鵜の瀬まで約2キロメートルにわたり松明行列がつづき、鵜の瀬で大護摩の 炎と煙がたちこめる幻想的な雰囲気の中、神宮寺の住職が送水文を読み上げお香水を注ぎクライマックスを迎えます。一般の参加者も手松明を持って参加できます。
 
■3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は、奈良と若狭が昔から深い関係にあったことを物語る歴史的な行事です。


  奈良のお水取りが終わると春が来る。関西の人々は、毎年この春の兆しを待ちわびます。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な春を告げる行事ですが、その「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。
 (両市は、この天平時代からの1,200年の歴史の輪廻により、昭和46年より姉妹都市盟約を締結しています。)


 「お水送り」は午前11時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げる。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためだ。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込む。
 


 午後1時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり、30メートルほど離れた的に向けて弓を放つ。


 午後5時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら山門をくぐり入場。午後6時からお堂で修二会を営み、「だったん」の行へ。7メートルもあろうかと思われる巨大松明を「エイッ、エイッ」とのかけ声とともに振り回す。
  いよいよ大護摩に火がともされると、炎が水面に燃え広がったようになる。住職が送水文を読み上げ、邪気払いをし、香水を遠敷川に流す。香水は10日後、奈良東大寺の「お水取り」で汲み上げられる。