風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)

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5月19日はボクシングの日 白井義男が日本初のボクシングのチャンピオンになり、戦後の日本人に希望と勇気を与えた 小島 日女子 ミス・エレガンス受賞

5月19日はボクシングの日です。

○ボクシングの日

日本プロボクシング協会が制定。

1952年のこの日、挑戦者・白井義男が世界フライ級チャンピオンのダド・マリノに判定勝ちし、日本初のボクシングのチャンピオンになった。

湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、古橋広之進選手の水泳自由形世界新記録と並んで、敗戦でショックを受けた日本人の心に希望の灯をともした。

▽アタテュルク記念と青少年とスポーツの日 [トルコ]

1919年のこの日、オスマン政府より派遣されたケマル・アタテュルクがアナトリア北部の港町サムスンに上陸した。

第一次大戦に敗れたトルコは連合国に分割占領されたが、各地でそれに反対する抵抗運動が起こっていた。ケマルは抵抗運動抑止のために派遣されたものであったが、その意に反して抵抗運動の指導者となった。この日はトルコ解放戦争開始の日として記念日とされている。
 
5月第3日曜日

○ウォークラリーの日

○ノー行事デー [青森県]
 
毎月19日

○トークの日

○食育の日

○シュークリームの日

○松阪牛の日

○クレープの日

■ボクシングの日について

プロボクシング世界チャンピオン会(プロボクシング・せかいチャンピオンかい)は、日本においてプロボクシング世界王者となった者による組織で、野球における日本プロ野球名球会に相当する。2010年より日本プロボクシング協会会長に就任した元世界チャンピオン大橋秀行がかねてより構想を温め、2月15日の東日本ボクシング協会総会で決定[1]、5月14日に発足を発表した。

活動内容
世界チャンピオン会の発足発表と同時に、1952年5月19日に白井義男が日本人初の世界タイトル保持者となったことを記念して、同日を「ボクシングの日」とする[2]。毎年この日には「ファン感謝イベント」が開催される。ボクシングの日の第1回イベントでは後楽園ホールに現役を含めた歴代世界王者38人が集まり、世界チャンピオン会発足式、新旧世界王者によるトークショーやキッズボクシング教室、慈善オークションを実施し、新人王予選や半世紀ぶりに日本で復活したヘビー級公式試合(4回戦)、女子のエキシビションマッチを開催した。

同年10月に李冽理が世界王座を獲得し、発足後の入会資格獲得者第1号となった。

2011年のボクシングの日には、現役・引退を含めて45人の世界王者が集結し[5]、東日本大震災からの復興支援として、会場での募金活動、サイン色紙やグローブなどのオークション、グッズ販売を通しての義援金集めといった慈善イベントを行った。また、前年より試験採用されている女子のプロトライアルマッチ、日本&東洋太平洋ダブルタイトルマッチも組まれた。

JBCが認定するWBA・WBC王座獲得者は2010年2月まで66名(男子62名・女子4名)誕生しているが、そのうち、渡辺二郎(JBCより無期限ライセンス停止中)を除く65名が参加の資格が得られ、物故者や帰国した外国人などを除いた58名が発足に参加した(当時JBC未公認だったIBF王者の新垣諭、JBC未公認時代にWBC女子王者だった菊地奈々子も参加資格がなく、高山勝成も参加資格こそあれ海外で活動していたため当初は不参加。2013年4月1日JBCのIBF加盟で新垣にも参加資格が発生する可能性あり。しかし2010年以降のWBA暫定王座はJBCが原則非公認のため江藤光喜は入会資格なし)。

2013年10月4日、主催イベントとして「世界チャンピオンFANミーティング」を東京ドームホテルで開催。

発足メンバー
最高顧問:ファイティング原田(第30代フライ級、WBA第5代・WBC第2代バンタム級)
会長:ガッツ石松(WBC第12代ライト級)
副会長:具志堅用高(WBA第3代ライトフライ級)
事務局長:中島成雄(WBC第6代ライトフライ級)
理事:渡嘉敷勝男(WBA第6代ライトフライ級)
理事:畑中清詞(WBC第13代スーパーバンタム級)
理事:平仲明信(WBA第32代スーパーライト級)
理事:飯田覚士(WBA第9代スーパーフライ級)
理事:セレス小林(WBA第13代スーパーフライ級)
特別顧問:大橋秀行(WBA第4代・WBC第4代ミニマム級)

「ボクシングの日」ファン感謝イベント

2010年より「ボクシングの日」に後楽園ホールで開かれるイベント。日本プロボクシング協会・日本ボクシングコミッションが主催し、プロボクシング世界チャンピオン会は協力に当たる。

2010年
キッズボクシング教室
エアボクシング試合
女子ボクシングエキシビジョン:宮尾綾香(大橋) vs 松島利也子(川崎新田)
新人王戦(スーパーフェザー級):中間勇輝(横浜光) vs 手崎充康(ヨネクラ)
ヘビー級4回戦:ひまわり真(大橋) vs 藤中充紀(金子)
表彰式(坂本博之)
チャリティーオークション
女子ボクシングトークショー(小関桃、風神ライカ、猪崎かずみ)
新人王トークショー(畑山隆則、坂本博之)
ヘビー級トークショー(竹原慎二、西澤ヨシノリ、市川次郎)
スペシャルプレゼントタイム
プロボクシング・世界チャンピオン会発足式

2011年
キッズボクシング大会
エアボクシング試合
女子ボクシングプロトライアルマッチ:カイ・ジョンソン(竹原&畑山) vs 角田紀子(白井・具志堅スポーツ)
女子ボクシング世界チャンピオントークショー(富樫直美、小関桃、天海ツナミ、多田悦子、藤岡奈穂子)
表彰式 チャンピオンカーニバル三賞 最優秀選手賞:山中慎介(帝拳)
敢闘賞:荒川仁人(八王子中屋)
技能賞:佐藤洋太(協栄)

特別賞:亀田興毅(亀田)、井岡一翔(井岡)

世界チャンピオン会活動報告
東日本大震災復興支援チャリティーオークション
OPBF・日本スーパーウェルター級ダブルタイトルマッチ:チャーリー太田(八王子中屋) vs 湯場忠志(都城レオスポーツ)

2012年
表彰式 チャンピオンカーニバル各賞 最優秀選手賞:湯場忠志(都城レオスポーツ)キャンプ中のため欠席
技能賞:岩佐亮佑(セレス)
殊勲賞:金子大樹(横浜光)
敢闘賞:中川大資(帝拳)

日本プロボクシング協会特別賞:白井義男、スタンレー伊藤

女子ボクシングプロトライアルマッチ:大葉智美(ワールドスポーツ) vs 中岩由香里(川島) ジャッジ:小関桃、天海ツナミ、藤岡奈穂子
実況:高柳謙一(フリーアナウンサー)
解説:富樫直美、藤村幸代(フリーライター)

袴田巖支援委員会報告 袴田の一日も早い再審決定を祈り、「袴田シート」2席設置を発表
世界チャンピオントークショー(飯田覚士、セレス小林、八重樫東、山中慎介、佐藤洋太、西岡利晃、内山高志、粟生隆寛)
スペシャルオークション

2013年

2013年は「〜袴田巌支援プロジェクト“Free Hakamada Now!”〜」の副題付きで開催される。
袴田事件報告
チャンピオンカーニバル表彰
キッズボクシングスパーリング
女子ボクシング特別スパーリング:藤岡奈穂子(竹原&畑山) vs 宮尾綾香(大橋)
NEXT STAGEスペシャル(高野人母美、井上尚弥)
世界チャンピオン会紹介
現役世界チャンピオントークショー
スペシャルオークション
お楽しみ抽選会

世界チャンピオンFANミーティング

2013年10月4日に東京ドームホテルで第1回開催。男女新旧合わせて39人の世界チャンピオンが参加、ゲストとして俳優の千葉真一、元プロ野球監督の古葉竹識ら著名人も来場、320人のボクシングファンを集めて執り行われた


【プロ部門】
■最優秀選手賞:井上尚弥(初)
■技能賞:山中慎介(2)
■殊勲賞:高山勝成(初)
■敢闘賞:内山高志(初)、八重樫東(3)、天笠尚(初)
■努力賞:村田諒太(初)、田口良一(初)
■KO賞:井上尚弥(初)
■新鋭賞:田中恒成
■年間最高試合(世界)井上尚弥vsオマール・ナルバエス
■年間最高試合(東洋・日本) 田中恒成vs原隆二

■女子最優秀選手賞:小関桃(2)
■女子年間最高試合 藤岡奈穂子vs川西友子
■特別賞:名城信男、李冽理、故・大場政夫、具志堅用高
■JBCコミッショナー顕彰 ホルヘ・リナレス
■JBCサポーターズクラブ賞:河野公平
 (三浦隆司は受賞を辞退)

★白井義男
白井 義男(しらい よしお、1923年11月23日 - 2003年12月26日)は、日本の元プロボクサー。東京市(現東京都)荒川区出身。元世界フライ級王者である。日本人として初めての世界王者となった。右のアウトボクサー。

基本情報


本名 白井 義男

階級フライ級

国籍 日本

誕生日 1923年11月23日

出身地 東京市(現東京都)荒川区

死没日 2003年12月26日(満80歳没)

スタイル オーソドックス

プロボクシング戦績


総試合数
58

勝ち
48

KO勝ち
20

敗け
8

引き分け
2
経歴

小学6年生時の夜祭りの余興で行ったカンガルーとのボクシングに負けて以後、ボクシングにのめり込んだという。プロデビューは戦時下の1943年。8戦全勝の成績を残すが招集されて海軍に従軍し、整備士として終戦を迎える。復員後、ボクシング界へ復帰したものの海軍時代に特攻機を整備した際の労災により腰痛となり、引退寸前の危機に追い込まれた。しかしそのころジムに出入りしていたGHQ職員の生物学者アルビン・R・カーンに見出され、彼の全面的な支援の元にその素質を開花させていく。

カーンの指導の下、栄養豊かな食事を与えられ健康管理を徹底、長い手足と運動神経を活かした防御主体のよりテクニカルなスタイルに矯正したことで白井のボクシングは息を吹き返し、1952年にダド・マリノ(アメリカ)との世界タイトルマッチに勝利し王座を獲得。以後4度の防衛を果たした。敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は"希望の光"となった。

主な戦績

1943年11月26日、プロデビュー。デビュー以来8戦全勝の成績を残す。

1944年海軍に召集。

1945年復員。

1946年8月、現役復帰戦となるノンタイトル6回戦に判定勝ち。

1948年7月30日、石森信之に2回KO勝ち。カーンと組んでから初試合・初勝利を果たした。

1949年1月28日、日本フライ級王座に挑戦。花田陽一郎に5回KO勝ちし王座獲得。以後3度防衛を果たした。

1949年12月15日、日本バンタム級王座に挑戦。堀口宏に10回判定勝ちし王座獲得。フライ級と合わせ2王座を同時保有。以後2度防衛を果たした。

1951年5月21日、ノンタイトル10回戦で現役世界王者ダド・マリノに判定負け。

1951年12月4日、ノンタイトル10回戦でダド・マリノに今度は7回TKO勝ち。

1952年5月19日、世界フライ級王座に挑戦。ここまで1勝1敗の王者マリノに15回判定勝ちし王座獲得。以後4度防衛を果たした(この日はのち2010年、日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されている)。

1952年11月15日、世界王座初防衛戦でマリノとの4度目の対戦となったが15回判定勝ちし決着をつける。

1954年11月26日、パスカル・ペレス(アルゼンチン)に15回判定負けし王座陥落。

1955年5月30日、世界王座再挑戦。ペレスとのリターンマッチに5回KOで敗れ、現役引退。なお、この試合の中継は最高視聴率96.1%を記録した。この数字は、2014年4月現在のテレビ放送視聴率の中で最高である。

エピソード
媒酌人は遠戚の浅沼稲次郎が務めた。

白井とカーンとの関係は、選手とコーチの範囲を超えるまさに「家族」と言えるものであった。引退後においてもそれは変わらず、白井の引退後も日本に永住した恩師・カーンとの交流は最後まで続いた。

晩年のカーンは認知症になったが、逝去するまで白井夫妻の厚い介護を受けた。子供のいないカーンは、死後全ての財産を白井に譲ったという。

また、白井はカーンの「ボクシングビジネスに手を出してはいけない」という忠告を守った。

1995年に具志堅用高とともに白井・具志堅スポーツジムを設立、同ジムの名誉会長に就任したものの、出資のみで経営はパートナーの具志堅に全面的に任せている(但し田中敏朗の要請を受け、暁ジム特別コーチを務めたことはある。)。

2003年12月26日、肺炎のため死去。80歳没。

最終戦績は58戦48勝(20KO)8敗2分。世界戦戦績は7戦5勝2敗。
※戦前戦後のデータ不詳により、白井の戦績については、65戦53勝(22KO)8敗4分、58戦46勝(18KO)8敗4分など各説ある。

語録
「(指導者として)根本はいい選手をつくることが使命なんでしょうね。でも、それ以上に、教え子たちに"ボクシングをやってよかった"って思ってもらいたい。だから、繰り返し言うのは、打たれちゃいけないってこと。避けて打つ、打って避ける。こういうボクシングをしなきゃ、将来、後悔することにもなりかねない。顔の形もくずれるし、網膜剥離になってしまうこともある」

「やっぱり『健全なるスポーツ』であるボクシングをしなきゃいかんと、これはみんなに言い聞かせてるんです。殴られて殴るのは子どもでもできる。打たせないで打つところに、やっぱり妙技があるんでね」

 

所属ジムについて

白井義男は、日本の生んだ世界王者の中で唯一、正式にジムに所属せず欧米式のマネジメント制度のもとでチャンピオンになった人物である。

 戦後所属していた王子拳道会(現・帝拳)から、カーン博士がマネジメント等諸権利を買い取ってからは、自宅兼プライベートジム(通称:シラカーンジム)で練習を行った。

 日本式ジム制度に固執する協会からは猛反発を受けたものの、日本人初の世界チャンピオンで当時の英雄であった白井の前では最終的に妥協し、白井のみを日本式ジム制度の例外とし、以後は一切例外を認めないこととした。

 

テレビドラマ出演
女たちの大坂城(1983年11月3日、読売テレビ) - 加藤清正 役

賞詞
勲四等旭日小綬章
文部省文化功労者

 

★現役世界チャンピオン

■ 2015年5月6日・V10達成 NEW!
WBA世界スーパーフェザー級スーパー王者
内山高志(ワタナベ)

■ 2015年5月6日・V1達成! NEW!
WBA世界ライトフライ級王者
田口良一(ワタナベ)

■ 2015年5月1日・V4達成
WBC世界スーパーフェザー級王者
三浦隆司(帝拳)

■ 2015年4月22日・3階級制覇達成!
WBA世界フライ級王者
井岡一翔(井岡)

■ 2015年4月22日・V1達成
IBF世界ミニマム級王者
高山勝成(仲里)

■ 2015年4月16日・V8達成
WBC世界バンタム級王者
山中慎介(帝拳)

■ 2014年12月31日・V1達成
WBA世界スーパーフライ級王者
河野公平(ワタナベ)

■ 2014年12月30日・2階級制覇達成!
WBO世界スーパーフライ級王者
井上尚弥(大橋)


★ボクシング日本人歴代世界チャンピオン

 

優勝者 階級 取得年

1 白井義男 フライ 1952
2 ファイティング原田 フライ 1962
  バンタム 1965
3 海老原博幸 フライ 1963
  WBAフライ 1969
4 沼田義明 J.ライト 1967
  WBC J.ライト 1970
5 小林弘 J.ライト 1967
6 藤猛 J.ウェルター 1967
7 西城正三 WBAフェザー 1968
8 大場政男 WBAフライ 1970
9 柴田国明 WBCフェザー 1970
  WBA J.ライト 1973
  WBC J.ライト 1974
10 輪島功一 J.ミドル 1970
  WBA J.ミドル 1976
11 小熊正二 WBCフライ 1974
12 花形進 WBAフライ 1974
13 ガッツ石松 WBCライト 1974
14 ロイヤル小林 WBC J.フェザー 1976
15 具志堅用高 WBA J.フライ 1976
16 工藤政志 WBA J.ミドル 1978
17 上原康恒 WBA J.ライト 1980
18 中島茂雄 WBC J.フライ 1980
19 三原正 WBA J.ミドル 1981
20 渡嘉敷勝男 WBA J.フライ 1981
21 渡辺二郎 WBA J.バンタム 1982
  WBC J.バンタム 1984
22 友利正 WBC J.フライ 1982
23 小林光二 WBCフライ 1984
24 浜田剛史 WBC J.ウェルター 1986
25 六車卓也 WBAバンタム 1987
26 井岡弘樹 WBCストロー 1987
  WBA J.フライ 1991
27 レパード玉熊 WBAフライ 1990
28 大橋秀行 WBCストロー 1990
  WBAストロー 1992
29 畑中清詞 WBC J.フェザー 1991
30 辰吉丈一郎 WBCバンタム 1991
31 鬼塚勝也 WBA J.バンタム 1992
32 平仲明信 WBA J.ウェルター 1992
33 薬師寺保栄 WBCバンタム 1993
34 川島敦志 WBC J.バンタム 1994
35 竹原慎二 WBAミドル 1995
36 山口圭司 WBA J.フライ 1996
37 飯田覚士 WBA J.バンタム 1997
38 畑山隆則 WBA S.フェザー 1998
  WBAライト 2000
39 戸高秀樹 WBA S.フライ 1999
40 星野敬太郎 WBCミニマム 2000
41 セレス小林 WBA S.フライ 2001
42 新井田豊 WBAミニマム 2001
43 佐藤修 WBA S.バンタム 2002
44 戸高秀樹 WBA バンタム 暫定 2003
45 新井田豊 WBAミニマム 2004
46 川嶋勝重 WBC S.フライ 2004
47 高山勝成 WBCミニマム 2005
48 長谷川穂積 WBCバンタム 2005
49 越本隆志 WBCフェザー 2006
50 名城信男 WBAスーパーフライ 2006
51 亀田興毅 WBAライトフライ 2006
52 坂田健史 WBAフライ 2007
53 内藤大助 WBCフライ 2007
54 小堀佑介 WBAライト 2008
55 西岡利晃 WBCスーパーバンタム 2008
56 粟生隆寛 WBCフェザー 2009
57 石田順裕 WBAスーパーウェルター (暫定)2009
58 内山高志 WBAスーパーフェザー 2010
59 亀田大毅 WBAフライ 2010

 

 

※オマケの付録

白井義男が1952年に日本初のボクシングのチャンピオンになった年、そして2ヵ月後、戦後間もない1952年(昭和27年)の7月に世界に羽ばたいた女性がいました。

その人の名は「小島 日女子」

 

1952年(昭和27年)の7月の戦後間もない時、衣食住が不足している時に『ミス・ジャパン』に選ばれた「小島 日女子」が同年、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部の港湾都市ロングビーチ(Long Beach)で行われた第一回 『ミス・ユニバース』世界大会に日本代表として出場した。

当時はアメリカの占領状態であったため非公式の特別賞 『ミス・エレガンス(Miss Elegance)』と成った。

このとき日本が通常の国であったならば優勝する可能性が有ったとも言われている。

1952年(昭和27年)に敵国であった米国に殴り込みをかけた大和なでしこがいたということは賞賛に値する。

戦後まもなく、食べるにも事欠いていて、貧しい生活を余儀なくされていた日本女性、大和なでしこが世界の美女として認められた瞬間でした。

日本の女性が世界水準に達したのです。

そしてついに1953年(昭和28年)「伊東 絹子」がミス・ユニバース世界大会で第3位に入賞し、1959年(昭和34年)についに「児島 明子」が第8回ミス・ユニバース世界大会における、日本人・有色人種・アジア人として初めての優勝することと成るのです。

 

「小島 日女子」は1952年日本女性の栄光の階段の第一歩を踏み出した人なのです。

 

 小島 日女子がホップし 伊東 絹子がステップ、 児島 明子がジャンプ

したという女性の栄光への道の物語でした。

 

★伊東 絹子(いとう きぬこ、1932年6月29日 - )は、日本のファッションモデル、女優である。1953年(昭和28年)の『ミス・ユニバース・ジャパン』であり、同年アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで開催された世界大会 『ミス・ユニバース』(第2回)に日本代表として出場、第3位に入賞した。

公称サイズ(1953年(昭和28年)時点)


身長 / 体重 164 cm / 52 kg

BMI 19.3

スリーサイズ バスト86 - ウエスト58 - ヒップ97 cm

 

★児島 明子(こじま あきこ、1936年10月29日 - )は、日本のモデルである。1959年(昭和34年)に開催された第8回ミス・ユニバース世界大会における、日本人・有色人種・アジア人として初めての優勝者として知られる。 
 
ミス・ユニバース当時

身長 170cm 3サイズ バスト94–ウエスト58–ヒップ96cm。

 

★小島 日女子(こじま ひめこ)

小島 日女子(こじま ひめこ)は、1952年(昭和27年)の『ミス・ジャパン』であり、同年に行われた第一回 『ミス・ユニバース』世界大会に日本代表として出場した。

 

第一回 『ミス・ユニバース』は1952年7月、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで行われ、29ヶ国からの代表者と39人のアメリカからの参加者が競演した。

 

そこに敗戦後の占領状態から同年4月に独立を回復したばかりだった日本の代表として出場した小島は、非公式の特別賞 『ミス・エレガンス(Miss Elegance)』を受賞している


Miss Elegance (Unofficial): Miss Japan, Himeko Kojima