6月16日は和菓子の日、麦とろの日、ケーブルテレビの日、無重力の日等の記念日ですが「お買い物ドリブル」の鮫島 彩の誕生日です。
▲アフリカの子供の日
アフリカ統一機構(現 アフリカ連合)が1991年に制定。
1976年のこの日、南アフリカ・ソウェトで黒人学生によるデモ行進が暴動に発展したソウェト蜂起が起こった。
○和菓子の日
全国和菓子協会が1979年に制定。
848(嘉祥元)年6月16日、菓子類を神前に供え疫病退散を祈ったという「嘉祥菓子」の故事に由来する。
○麦とろの日
麦ごはんの会が2001年に制定。
六(む)十(と)六(ろ)で「むぎとろ」の語呂合せ。
○ケーブルテレビの日
郵政省(現在の総務省)が1991年に制定。
1972(昭和47)年のこの日、「有線テレビジョン放送法」が成立した。
○無重力の日
地下無重力実験センターが町内にあった北海道上砂川町が1991年3月に制定。
六(む)十(じゅう)六(ろく)で「むじゅうりょく」の語呂合せ。
○ブルームズ・デー
アイルランドのジェームズ・ジョイスの名作『ユリシーズ』では、1904年6月16日の朝8時から翌日午前2時すぎまでの約18時間に18の挿話が展開することから、世界中のファンから記念日の扱いをされ、主人公の名前レオポルド・ブルームから「ブルームズ・デー」と呼ばれる。
●歴史
1903年ヘンリー・フォードら3人がフォード・モーターを設立
●誕生日
1937年 - 桜町弘子、女優
1987年鮫島 彩(さめしま あや)
★鮫島 彩(さめしま あや、1987年6月16日 - )は、栃木県出身の女子サッカー選手。なでしこリーグ・INAC神戸レオネッサ所属。ポジションはMF、DF(サイドバック)。
●忌日
756年楊貴妃(楊玉環,楊太眞)[よう・きひ] (唐・玄宗皇帝の愛妾)<38歳>安禄山に追いつめられた玄宗皇帝の命令により縊殺[719年生]
■鮫島 彩が鮮やかな先制点 W杯2015 2015/6/13
鮫島は2度の大けが乗り越え、「目の前のボールを必死に追いかけることで、感動とかが生まれるもの。まずはそこからだと思っています」とW杯連覇を誓った。
そしてW杯2015年第2戦の相手カメルーンは格下ではあるがエクアドル女子代表に6-0の大勝を収めている。
なでしこは先発メンバー5人を入れ替え、GKには海堀あゆみ、DFは近賀ゆかり、岩清水梓、熊谷紗希、宇津木瑠美の4人。MFには阪口夢穂、宮間あや、川澄奈穂美、鮫島彩、FWは大儀見優季と菅澤優衣香が並んだ。
試合は開始からなでしこがボールを支配して相手を押し込むと、最初のチャンスをしっかりと生かす。6分、右サイドをパス交換で抜けだした川澄がニアに速いクロスを送る。走りこんだ大儀見は触りきれなかったが、流れたボールを鮫島が押し込み、なでしこが先制に成功する。(大儀見は相手方2人を引きつけ且つキーパーを動かし、シュートコースを空けさせわざと鮫島にゴールさせたようにも見えた。)
ゴールハイライト 日本代表VSカメルーン 女子ワールドカップ2015 【なでしこジャパン】 鮫島彩ゴール ...
最終的になでしこ辛勝するも 決勝T一番乗り~
★6月16日生まれの鮫島 彩 さめしまあやについて
鮫島 彩 サメシマ アヤ
ラテン文字
SAMESHIMA Aya
基本情報
鮫島選手の最大の特徴は「お買い物ドリブル」(別名=女の子内股走り)です。
粘り強い守備と高速ドリブルが持ち味のサイドバック。
走り方が非常に特徴的で、背筋をピンと伸ばし、やたら速い内股の女の子走りで相手を抜き去るその様は「お買い物ドリブル」と形容される。
走っている姿が「買い物袋を持ったお姉さん」に見えるため、お買い物ドリブルと名付けられる。
可愛い内股走りが男性ファンを魅了しています。
一見プロサッカー選手の走りに見えませんが、得意とするプレーは高速ドリブル!
2011年女子ワールドカップでは『危険な選手』とフランスのテレビ局
から言われたほどのスピードで相手チームを圧倒しました。
国籍
日本
生年月日
1987年6月16日(27歳)
出身地
栃木県宇都宮市
身長163cm
体重53kg
BMI(肥満度)は19.95と標準値の22より低め。鮫島選手の身長だと標準体重は58.45kgなので-5.45kg軽い。
在籍チーム
INAC神戸レオネッサ
ポジション
MF、DF
背番号3
利き足右足
ユース
1995-2002
2003-2005
河内SCジュベニール
常盤木学園高等学校
クラブ
年
クラブ 出場
2006-2011
2011
2011-2012
2012-2014
2015-
日本の旗 TEPCOマリーゼ
アメリカ合衆国の旗 ボストン・ブレイカーズ
フランスの旗 モンペリエHSC
日本の旗 ベガルタ仙台レディース
日本の旗 INAC神戸レオネッサ
獲得メダル
女子サッカー
オリンピック
銀 2012 ロンドン 女子
ユース時代
1987年6月16日、栃木県河内郡河内町(現・宇都宮市)に生まれる。小学校1年のとき、たまたま近くにあった女子サッカー・チームがあり、その「サッカーというより鬼ごっこ」のような雰囲気に惹かれてサッカーを始める。中学校の部活ではテニス部に所属し、「絶対にサッカー選手になりたい」という気持ちはなかった。
ところが、安藤梢も在籍する地元クラブの河内SCジュベニールに所属すると、阿満憲幸監督の熱心な指導のもと、めきめきと頭角をあらわす。
その後U-15の全国大会に出場。実力を認められ、女子サッカー界の名門である常盤木学園高等学校(宮城県仙台市)にサッカー留学した。
1年からレギュラーに起用され、第14回全日本高等学校女子サッカー選手権大会では背番号10を背負い準優勝した。
高校時代は攻撃的MFのポジションでスピードに乗ったドリブルを得意とした。
8度の全国大会出場、3度の準優勝を経験した鮫島は一躍注目を集め、U-18で初めて日本代表に選ばれる。
しかし、母親と同じく「看護師になりたいという気持ちがあった」鮫島は、「代表練習に行くのはもう嫌で、嫌で」、また「欲がなくて、そういう高いレベルでプレーすることを望んでいなかった。」
東京電力マリーゼ時代
なでしこリーグのYKK AP東北女子サッカー部フラッパーズ(宮城県志田郡三本木町。現・大崎市)が東京電力女子サッカー部マリーゼ(福島県双葉郡広野町)になる際、高校卒業後の進路に悩む鮫島に誘いをかけたところ、高校の部活や代表合宿を通して「YKKの楽しい雰囲気」を知っていた鮫島はこれを承諾し、高校卒業後の2006年にマリーゼに入団。
プロ契約ではないため、東京電力福島第一原発で事務員の仕事をするかたわら、練習や試合に臨んだ。
レギュラーを獲得するとU-20日本女子代表に選出され、AFC U-19女子選手権2006マレーシアでは、韓国戦、インド戦、中国戦でゴールを決めた。
2007年、シーズンにチームはディビジョン2に降格したが、鮫島はmocなでしこリーグ2007ディビジョン2シーズン最優秀選手賞(MVP)を受賞し、チームも優勝して1年での一部復帰を果たした。
2007年以降なでしこチャレンジプロジェクトに参加すると、2008年にはなでしこジャパンに初選出された。代表ではサイドの突破力を買われ、ミッドフィールダーから左サイドバックにコンバートされた。2009年シーズンではマリーゼでも左サイドバックとして出場している。
ボストン/モンペリエ時代
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)によって引き起こされた福島第一原子力発電所事故の影響を受け、マリーゼが活動を自粛すると「このままサッカーを続けていいのか」と思い悩んだが、サッカーを続けることを選び]、マリーゼの練習に参加していたアメリカ人選手の誘いもあってWPSのボストン・ブレイカーズに移籍した。
マリーゼの菅野将晃監督は「海外移籍には相当な不安感があったはず」と話している。米国への移籍は、東京電力でプレーしていたということで、国内移籍では受け入れ先に迷惑がかかるのではないか、という配慮もあった。6月12日のスカイ・ブルーFC戦で後半はじめから途中出場したのがWPSデビューとなった。
6月に開催された2011 FIFA女子ワールドカップにおいても左サイドバックとして全試合でスタメンとしてプレーし、7月17日(日本時間18日未明)に行われた決勝戦でもアメリカ代表に勝利し優勝を決めたチームに貢献した。
8月10日、これまでのスポーツ界の貢献に対して、同じく栃木県出身の安藤梢選手とともに栃木県県民栄誉賞を授与された。ロンドン・オリンピック最終予選でもチームで唯一5試合フル出場した。
9月12日、モンペリエHSCと2年契約を結んだと発表。
9月22日に正式契約し、監督のサラ・ムバレクは、「フランスとヨーロッパでは、サイドバックを任せられる選手が稀少であり求められている。だからわれわれは一歩先んじたわけだ。
『サメ』は、サイドバックだけでなくもっと前の位置もこなす多機能の選手である。われわれの考える試合運びでは、サイドの役割が重要になってくる。彼女のようなタイプの選手を、まさにわれわれは待望していたのである」との発言を残している。
12月22日、なでしこジャパン海外組の熊谷紗希(常盤木高の後輩)および大儀見優季とともに、大儀見の同級生が勤務する東松島市立矢本西小学校(東松島市矢本)を訪問し、サッカー教室などで被災地の児童たちと交流した。
2012年6月をもってモンペリエHSCを退団。
ベガルタ仙台時代
2012年7月9日、ベガルタ仙台レディースに移籍。チーム初のプロ契約選手となる。
同年8月21日、仙台市から賛辞の楯が贈呈されることとなった。
日本代表としてロンドンオリンピックでは6試合中5試合に出場し、銀メダルを獲得した。
2013年3月20日仙台市内で常盤木学園高校と練習試合中、後半に右足の違和感を訴えて途中交代、その後リハビリで様子を見ていたが5月23日に痛みが引かないため精密検査を行った結果、右太腿の肉離れと腱損傷で全治約3カ月と診断されたと発表。
その後もリハビリを続けて、そのリハビリ中に同じ施設に通っていた冬季オリンピックスノーボード女子パラレル大回転代表の竹内智香選手と交流を持ち、その後、竹内選手はソチオリンピックで銀メダルを獲得したことに刺激を受けた。
2014年2月28日にヒューストン・ダッシュへ半年間の完全移籍(9月にベガルタ仙台に戻る予定だった)が決まったものの、2月の日本代表合宿中に再び負傷し、結局ヒューストン・ダッシュとの契約はできず、7月下旬までリハビリを行っていた。
2014年7月29日にベガルタ仙台レディースへ復帰が発表された。
INAC神戸レオネッサ時代
2015年1月、INAC神戸レオネッサにプロ契約での移籍を発表した。
所属クラブ
1995年 - 2002年 河内SCジュベニール
2003年 - 2005年 常盤木学園高等学校
2006年 - 2011年 TEPCOマリーゼ
2011年 - 2011年8月 ボストン・ブレイカーズ
2011年9月 - 2012年6月 モンペリエHSC
2012年7月 - 2014年2月、7月 - 2015年 ベガルタ仙台レディース
2015年1月 - INAC神戸レオネッサ
プレースタイル
スピードに乗った高速ドリブルを持ち味としている。2011 FIFA女子ワールドカップでは、スピードを活かして攻撃の起点になった鮫島を「(相手にとって)危険な選手」「(サイドからの鋭い突破が)飛び道具」とフランスのテレビ局「フランス2」や新聞「レキップ」が評した。
語録
「悲しい思いをし、辛い日々を送っている人がたくさんいる。少しでも元気づけられるプレーをするために、私はドイツに来た」… 2011年のW杯を前にしてジャーナリストの日々野真理に語った言葉
「今回、優勝できたのも福島県の皆様の応援があってのことと思っており、福島県には大変お世話になりました。震災でご苦労されている福島県にせめて優勝のユニフォームをお贈りして、少しでも元気をだしていただければ幸いです」… 福島県庁の知事室にユニフォームを贈った時の添付メッセージ