今日2015年2月21日は「漱石の日」です。
文部省が作家・夏目漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対し、漱石は「自分には肩書きは必要ない」として、1911(明治44)年の2月21日に博士号を辞退する旨を書いた手紙を時の文部省専門学務局長の福原鐐二郎氏に送ったことに由来する。
筆者は夏目漱石の本は全部読破した記憶がある。
最初に読んだのは中学生のときで「坊ちゃん」であった。
下記をクリックすると「青空文庫」(インターネット上の電子図書館)で無料で読めます。
主人公は東京の物理学校(東京理科大学の前身)を卒業したばかりの江戸っ子気質で血気盛んで無鉄砲な新任教師である。漱石が高等師範学校(後の東京高等師範学校)英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。
人物描写が滑稽で、わんぱく坊主のいたずらあり、悪口雑言あり、暴力沙汰あり、痴情のもつれあり、義理人情ありと、他の漱石作品と比べて大衆的であり、漱石の小説の中で最も多くの人に愛読されている作品である。
後年筆者も似たような経験があるので懐かしく何回も読み返した記憶ある。
何回か映画化されたようですがいまひとつ話題にならないのは漱石の「坊ちゃん」は小説以上に映像化したものが超えられないということかもしれません。
続いて呼んだのが「三四郎」でした。
『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。全13章。
九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、ときに三四郎の内面にはいる。
主人公「小川三四郎」は青春時代の自己と重なる部分がたくさんありました。
最初に読んだのは同じく中学時代でした。あまりにも面白かったので1-2時間で読み終えた記憶があります。
その後筆者も大学卒業後福岡から東京へ上京した経験があり、楽しく読み返した記憶がよみがえります。
今日は夏目漱石を思い出し、又読み返してみますかね。
■「漱石」という名前をどうしてつけたのか。
中国が晋の時代の孫楚(そんそ)という人が、友人に「もう隠居したいんだ」という気持ちを伝えるために、この詩を使って話をしました。しかしなぜか順番を間違えて「漱石枕流」と言ってしまったのです。
これだと、「石で口をすすいで、川の流れを枕として生活をしたい」という意味になってしまいます。
これを聞いた友人は尋ねます。
つっこまれた孫楚(そんそ)は「まちがえた~」とは言えずに意地をはります。
つまり負け惜しみを言ったのです。漱石枕流には負け惜しみ、頑固者という意味があります。自分のことを変わり者と思っていた漱石は、これをペンネームにしたと言われています。
★青空文庫(あおぞらぶんこ)は、日本国内において著作権が消滅した文学作品、あるいは著作権は消滅していないものの著作権者が当該サイトにおける送信可能化を許諾した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館である。富田倫生・野口英司・八巻美恵・らんむろ・さてぃの4人が呼びかけ人となって発足した。
約12,630作品 (2014年7月現在)
★夏目 漱石(なつめ そうせき)
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。
その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
経歴
幼少期
1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった。 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。
漱石の祖父・夏目直基は道楽者で、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。
金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残ることとなった。
当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。
その後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
家庭のごたごたのなか、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。
中退ののちも長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学する。ここで後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数か月で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の1883年(明治16年)、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学し、頭角を現した。
1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。
正岡子規との出会い
夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル)
1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。
1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。
7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月大学を中退する。
イギリス留学
1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2か月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。
1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社からは多くの俳人が輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。
1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)英国留学を命じられる。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。
メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだりするが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。
1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り、1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。
漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。
当時の漱石最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が恒松郁生によって1984年(昭和59年)に設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。
作家への道と朝日新聞社入社
英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。
同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。 東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。
その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。
この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。
1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
修善寺の大患
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
夏目漱石の墓
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年(大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし『明暗』執筆途中に死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。
死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。
1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
略年譜
※日付は1872年までは旧暦
1867年(慶応3年)1月5日 - 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたので、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
1868年(明治元年)11月 - 新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。
1869年(明治2年) - 養父・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。
1870年(明治3年) - 種痘がもとで疱瘡を病み、顔にあばたが残る。「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。
1874年(明治6年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。現・台東区立蔵前小学校)に入学。
1876年(明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校。
1878年(明治11年) 2月 - 回覧雑誌に『正成論』を書く。
10月 - 錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業。
1879年(明治12年) - 東京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学。
1881年(明治14年) - 1月 - 実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校。
1883年(明治16年) - 9月 - 神田駿河台の成立学舎に入学。
1884年(明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。自炊生活をしながら成立学舎に通学。 9月 - 大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、正木直彦、橋本左五郎などがいた。
1885年(明治18年) - 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。
1886年(明治19年)7月 - 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。
1887年(明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助が共に肺病のため死去。急性トラホームを病み、自宅に帰る。
1888年(明治21年) 1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。
7月 - 第一高等中学校予科を卒業。
9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。
1889年(明治22年) 1月 - 正岡子規との親交が始まる。
5月 - 子規の「七草集」の批評を書き、初めて“漱石”の筆名を用いる。
1890年(明治23年) 7月 - 第一高等中学校本科を卒業。
9月 - 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。
1891年(明治24年) 7月 - 特待生となる。
12月 - 『方丈記』を英訳する。
1892年(明治25年) 4月 - 分家。北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し、北海道平民になる(徴兵を免れるためとの説がある)。
5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。
1893年(明治26年) 7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。
10月 - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。高等師範の校長は講道館創設者として有名な嘉納治五郎という柔道の大家だった。
1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。
1895年(明治28年) 4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで[16]赴任。
12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いし、婚約成立。
1896年(明治29年) 4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。
6月 - 中根鏡子と結婚。
7月 - 教授となる。
1897年(明治30年)6月 - 実父・直克死去。
1898年(明治31年)10月 - 俳句結社紫溟吟社の主宰に。
1899年(明治32年)5月 - 長女・筆子誕生。
1900年(明治33年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
1901年(明治34年)1月 - 次女・恒子誕生。
1902年(明治35年)9月 - 正岡子規没。
1903年(明治36年) 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
10月 - 三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もよくした。
1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。
1905年(明治38年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。 12月 - 四女・愛子誕生。
1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。
1907年(明治40年) 1月 - 「野分」を『ホトトギス』に発表。
4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。
6月 - 長男・純一誕生。「虞美人草」を朝日新聞に連載( - 10月)。
1908年(明治41年) 1月「坑夫」( - 4月)、6月「文鳥」、7月「夢十夜」( - 8月)、9月「三四郎」( - 12月)を朝日新聞に連載。
12月 - 次男・伸六誕生。
1909年(明治42年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。
1910年(明治43年) 3月 - 五女・雛子誕生。
6月 - 胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。
8月 - 療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。
10月 - 長与病院に入院。
1911年(明治44年) 2月21日 - 文部省からの文学博士号授与を辞退。
8月 - 朝日新聞社主催の講演会のために明石、和歌山、堺、大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。
11月29日 - 五女・雛子、原因不明の突然死。後の漱石の遺体解剖の遠因となる。
1913年(大正2年) 1月 - 酷いノイローゼが再発。
3月 - 胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る。
1914年(大正3年) 4月 - 「こゝろ」を朝日新聞に連載( - 8月)。
11月 - 「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。
1915年(大正4年) 6月 - 「道草」を朝日新聞に連載( - 9月)。
11月 - 中村是公と湯ヶ原に遊ぶ。
12月 - 芥川龍之介、久米正雄が門下に加わった。このころからリューマチスに悩む。
1916年(大正5年) 1月 - リューマチスの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。
5月 - 「明暗」を朝日新聞に連載( - 12月)。
12月9日 - 午後7時前に、胃潰瘍により死去。戒名・文献院古道漱石居士。
1984年(昭和59年)11月 - 千円札に肖像が採用される。
作品一覧
小説
中・長編小説
吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
坊っちゃん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
短編小説・小品
倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
薤露行(かいろこう)(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
評論・随筆・講演など
評論文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)
文学評論(1909年3月、春陽堂)
随筆思ひ出すことなど(1910年 - 1911年、『朝日新聞』/1911年8月、春陽堂刊『切抜帖より』収録)
硝子戸の中(1915年1月 - 2月、『朝日新聞』/1915年3月、岩波書店)
講演現代日本の開化(1911年、和歌山県会議事堂/1911年11月、朝日新聞合資会社刊『朝日講演集』収録)
私の個人主義(1914年)
紀行カーライル博物館(1905年、『学鐙』/『漾虚集』収録)
満韓ところどころ(1909年10月 - 12月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
句集・詩集漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)
漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店)
新体詩従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号)
画我輩はお先真っ暗の猫である
自作の『我輩は猫である』のパロディ。
映像化作品
吾輩は猫である(1935年、PCL、監督:山本嘉次郎)
坊っちゃん(1953年、東宝、監督:丸山誠治)
こゝろ(1955年、監督:市川崑)
三四郎(1955年、監督:中川信夫)
坊っちゃん(1958年、監督:番匠義彰)
坊っちゃん(1966年、監督:市村泰一)
心(1973年、原作「こゝろ」監督:新藤兼人)
吾輩は猫である(1975年、監督:市川崑)
坊っちゃん(1977年、監督:前田陽一)
それから(1985年、監督:森田芳光)
ユメ十夜(2006年、監督:山口雄大)
門下生
代表的なのは、安倍能成・小宮豊隆・鈴木三重吉・森田草平で、四天王と称せられる。それに加えて、漱石と四天王が中心となって開いた木曜会に馳せ参じた文士がいわば漱石門下とされ、後に評論家・本多顕彰によって漱石山脈と命名されている。
赤木桁平
芥川龍之介
阿部次郎
安倍能成
内田百間
久米正雄
寺田寅彦
中勘助
松浦嘉一
野上豊一郎(臼川)
野上弥生子
野間真綱
林原耒井
松岡譲
松根東洋城
皆川正禧
和辻哲郎
漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ。大の甘党で、療養中には当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹き付ける音にそっくりだったことから、破障子なる落款を作り、使用していたことがある。
また、漱石は天然痘に罹っており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。