5月27日は日本海海戦の日、百人一首の日、小松菜の日などの記念日です。
○日本海海戦の日
1905年の5月27日、日本海海戦で東郷平八郎が率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に対して大勝利を収めた。
後に「東郷ターン」と呼ばれる丁字型陣形をとり、敵艦に対して一斉射撃をして大勝利を収めた。
有名な名言が2つあります。
①皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
平八郎書
②「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えています。
兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。
後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。
日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。日本以外ではこれを主力決戦の場所にちなみ対馬沖海戦(つしまおきかいせん、英語:Battle of Tsushima、ロシア語: Цусимское сражение(Tsusimskoye srazheniye)と呼ぶ。
この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という海戦史上まれな一方的勝利となった。
これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。
そして日露戦争は、「有色人種が白色人種に勝利した、人類史上はじめての近代戦争」だったのです。
更に5月27日日本は白人の植民地化から免れ、大日本帝国は世界の「五大国」として西欧列強の仲間入りを果たした記念すべき日です。
*(旧)海軍記念日
日本海海戦を記念し、戦前は記念日になっていた。1945年の第二次大戦敗戦の後、「陸軍記念日」とともに廃止された。
○百人一首の日
1235(文暦2/嘉禎元)年のこの日、藤原定家によって小倉百人一首が完成された。
藤原定家の「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられている。
百人一首(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。
『小倉百人一首』は、1番の天智天皇から100番の順徳天皇まで、約600年間に生きた百人の歌人の歌を一首ずつ色紙に書き、同じくその歌人の肖像画をを添えた物です。
中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。
概要
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。
その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。
定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。
成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。
『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、
1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、
2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。
定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。
戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。
●『百人一首』の歌と歌人たち
百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。
1.天智天皇
2.持統天皇
3.柿本人麻呂
4.山部赤人
5.猿丸大夫
6.中納言家持
7.阿倍仲麻呂
8.喜撰法師
9.小野小町
10.蝉丸
11.参議篁
12.僧正遍昭
13.陽成院
14.河原左大臣
15.光孝天皇
16.中納言行平
17.在原業平朝臣
18.藤原敏行朝臣
19.伊勢
20.元良親王
21.素性法師
22.文屋康秀
23.大江千里
24.菅家
25.三条右大臣
26.貞信公
27.中納言兼輔
28.源宗于朝臣
29.凡河内躬恒
30.壬生忠岑
31.坂上是則
32.春道列樹
33.紀友則
34.藤原興風
35.紀貫之
36.清原深養父
37.文屋朝康
38.右近
39.参議等
40.平兼盛
41.壬生忠見
42.清原元輔
43.権中納言敦忠
44.中納言朝忠
45.謙徳公
46.曽禰好忠
47.恵慶法師
48.源重之
49.大中臣能宣朝臣
50.藤原義孝
51.藤原実方朝臣
52.藤原道信朝臣
53.右大将道綱母
54.儀同三司母
55.大納言公任
56.和泉式部
57.紫式部
58.大弐三位
59.赤染衛門
60.小式部内侍
61.伊勢大輔
62.清少納言
63.左京大夫道雅
64.権中納言定頼
65.相模
66.大僧正行尊
67.周防内侍
68.三条院
69.能因法師
70.良暹法師
71.大納言経信
72.祐子内親王家紀伊
73.権中納言匡房
74.源俊頼朝臣
75.藤原基俊
76.法性寺入道前関白太政大臣
77.崇徳院
78.源兼昌
79.左京大夫顕輔
80.待賢門院堀河
81.後徳大寺左大臣
82.道因法師
83.皇太后宮大夫俊成
84.藤原清輔朝臣
85.俊恵法師
86.西行法師
87.寂蓮法師
88.皇嘉門院別当
89.式子内親王
90.殷富門院大輔
91.後京極摂政前太政大臣
92.二条院讃岐
93.鎌倉右大臣
94.参議雅経
95.前大僧正慈円
96.入道前太政大臣
97.権中納言定家
98.従二位家隆
99.後鳥羽院
100.順徳院
小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。
また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。
歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。
100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。
万葉の歌人『万葉集』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、防人、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。
自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、大伴家持、山部赤人、柿本人麻呂など。
六歌仙の時代この時代になると、比喩や縁語、掛詞などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。
選者の紀貫之が「六歌仙」と呼んだ、在原業平や小野小町などが代表的な歌人である。
女流歌人の全盛平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。
文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた。
『百人一首』にはそのほかにも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っている。
隠者と武士の登場貴族中心の平安時代から、武士が支配する鎌倉時代へとうつる激動の世情の中で、仏教を心の支えにする者が増えた。
『百人一首』もそうした時代を反映し、西行や寂蓮などの隠者も登場する。
藤原定家自身も撰者となった『新古今和歌集』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。
用途
『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。
教材
たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。
また、短い和歌の中に掛詞などさまざまな修辞技巧が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だといえる。
かるた
『百人一首』は現在では歌集としてよりもかるたとしてのほうが知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれるもので、現在では一般に以下のような形態を持つ。
百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。
札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻などの意匠によるもの)と作者の名、和歌が記されており、取り札にはすべて仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。
かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。
歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由があるわけではなく、もともとさまざまな折子供や若者が集まって遊ぶ際に百人一首がよく用いられたことによるものである。
そのなかでも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことをゆるされていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。
○小松菜の日
堺市で小松菜を生産するしものファームが2006年に制定。
五(こ)2(ツー)七(な)で「こまつな」の語呂合せ。
★小松菜
概要
ツケナ類(野沢菜、チンゲンサイなど、アブラナ科の非結球葉菜の総称)の一種で、江戸時代初期に現在の東京都江戸川区小松川付近で、ククタチナ(茎立ち)を品種改良して栽培され始めたといわれる。将軍吉宗の鷹狩りの際に献上され、そのときに地名から小松菜の名がつけられた、といわれる。
●小松菜の栄養価がすごい!
小松菜は、栄養価が非常に高い緑黄色野菜です。
カルシウムはほうれん草の約4倍で、老化を防ぐ3大ビタミンと言われるビタミンA、C、Eも豊富。さらに、鉄分、ミネラル、β-タカロテン、プロリン、イソチオシアネート、ネオキサンチンなどの成分が含まれ、美しい肌と髪を作り、肥満防止、免疫力アップ、デトックス効果が期待できるすごい食材なのです!
小松菜といえばお浸しや炒め物のほかにスィーツもあるようです。
貧血 肌あれ 風邪予防 高血圧予防 骨粗鬆症の予防 ガン予防等に効能があるとされている。
保存
冷蔵 2-3日
冷凍 1ヶ月程度
傷みやすいので、収穫または購入してから2-3日以内で使い切ること。
使い切れなかった場合は、濡れた新聞紙で包んでビニール袋に入れて保湿対策をする。冷蔵の場合密閉すると萎れやすいので注意。
立てて(生えている状態に近づけて)保存して葉から水分が蒸発するのを防ぐ。冷蔵庫で保存すると、2-3日鮮度を保つことができる。冷凍する時は、硬めに茹でてから、使いやすい長さに切って水気をよく切って荒熱をとり、タッパーやラップなどで密封して冷凍保存する。